古関裕而『うた物語』TOP
イヨマンテの夜
生誕100年記念
イヨマンテの夜
伊藤久男顕彰歌碑(本宮市教育委員会提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(22)2009.07.06

菊田一夫と歩んだ36年の道
 戦後の古関の活動は、盟友菊田一夫と共に歩いた道でもありました。菊田との出会いは、1937(昭和12)年、NHK放送局から放送劇の依頼を受け、紹介されたのが最初でした。菊田は古川ロッパ一座の座付き作者で、「当世五人男」(村上浪六)の放送では脚本を担当していました。この放送が好評を博したので、続いて「思い出の記」(徳富蘆花)や「八軒長屋」(村上浪六)などを2人で担当しました。また、古関はロッパ一座の劇音楽も依頼されるなど、コンビの活動は36年間の長きにわたりました。

■難曲中の難曲
 戦後、菊田と古関のコンビで作り上げたラジオ・ドラマは、「鐘の鳴る丘」(昭和22〜25年)、「君の名は」(昭和27〜29年)などで、いずれも大好評でした。その間、名曲「長崎の鐘」(昭和24年)を作曲して高評価を得た古関は、昭和25年には異色の歌謡曲「イヨマンテの夜」(作詞菊田一夫、歌伊藤久男)を発表しました。難曲中の難曲でした。
 自伝『鐘よ 鳴り響け』によると、歌の旋律は「鐘の鳴る丘」の一シーンから生まれたそうです。最初は奥多摩の「杣人(そまびと)」(きこり)が、歌詞のないメロディーを口ずさみながら少年院のそばを通る、という設定で作曲されました。しかし、古関はこのメロディーが好きで、わずかの放送で消えることが惜しくなり、菊田に旋律に合った歌詞を作ってくれないかと依頼。菊田も同意見で、アイヌの熊祭り(イヨマンテ)に題材を取り、完成したのが「イヨマンテの夜」でした。
 まず「アホイヤァー」の叫び声に度肝を抜かれます。そして「イヨマンテ/燃えろかがり火/ああ満月よ/今宵熊祭/踊ろうメノコよ」の後、間奏、そして「ああー」と続きます。この歌は、NHK素人のど自慢大会で男性のほとんど全員が歌うため、審査員が大変困惑したといったエピソードが残されています。
 このように、古関と菊田、そして彼らに活躍の舞台を提供したNHKは三位一体となって、日本の放送劇や映画、歌謡曲の全盛時代を築くことになるのです。
    メ  モ  
 菊田一夫 
 1908(明治41)〜73(昭和48)年。劇作家。サトウ・ハチローのもとで詩作を学び、昭和30年、東宝に迎えられて演劇担当役員に。ミュージカルを手掛け『マイ・フェア・レディ』『風と共に去りぬ』などを発表し、48年、トニー特別賞が贈られました。 

 


〒960-8648 福島県福島市柳町4の29

個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c) THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN