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人間・古関裕而を語る
生誕100年記念
NHK番組「私の好きな曲」に出演した古関裕而さん(左から3人目)ら家族(昭和37年、古関裕而記念館提供)
斎藤 秀隆 (福島東稜高教員)

(42)2009.12.28

発想力で作曲、家族思いの父
 連載も今回で最後となりました。そこで最終回は、「人間・古関裕而」を最もよく知る長男正裕さんとの対談を掲載し、締めくくりにしたいと思います。
 古関 連載ご苦労さまでした。斎藤先生の文章にもあったように、父は非常に家族思いの人でした。旅行にも結構、みんなで出掛けましたね。学校行事にもよく来てくれ、子ども心には、いつも顔を出して恥ずかしいな、と思っていましたが、今ではありがたい、大好きな父でした。
 斎藤 古関さんのアルバムを見て家族写真が多いことにビックリしました。しかも、丁寧に記録・保存されており、昭和時代を回顧できる、貴重な昭和歌謡史の資料になると思います。

 ■現地訪れイメージづくり 
 古関 私の部屋が父の仕事部屋の隣だったので、楽譜に向かう姿を覚えています。どういうふうに作曲していたかは知りませんが、取材にはよく行っていましたね。社歌とか校歌をたくさん作っていますが、その土地を見たり、校舎を見たり、直接見ることが曲のイメージにつながっていたようです。
 斎藤 古関さんは考えて作るのではなく、イメージとして曲がわいてきたといいます。発想力があるからこそ、生涯五千曲も作れたのだと思います。
 古関 大学時代、バンドを組み、曲を父に聴いてもらうと「お前の曲は、頭で考えて作っている、それじゃ駄目だ」と言われました(笑)。

 ■曲は育てられる 
 古関 父は阪神、巨人の球団歌などを作っていますが、阪神の「六甲おろし」は戦前の昭和十一年に作った曲で父も忘れていたほどです。一九八五(昭和六十)年に阪神が久々に優勝した時、取材が何件もありましたが、父は「どんな曲だったかねー」なんて(笑)。あれから「六甲おろし」は一躍有名な球団歌となりました。曲というものは育てられるということですね。
 斎藤 古関さんは昭和六年に、早大の応援歌「紺碧の空」を作曲し、これで早大の勝率がグンと上がりました。「紺碧の空」に押され気味だった慶大が、古関さんに、ぜひ慶応にも応援歌を作曲してほしいと依頼したそうです。古関さんは実直な方ですから、早大の了解を取ってから慶大の「我ぞ覇者」を作曲したと言われています。
 古関 私は早大の出身ですが、「紺碧の空」を父が作曲したという特別な感慨はありませんでした。けれども、なんといっても「紺碧の空」は父の出世作なのです。「紺碧の空」があったからこそ、父はスポーツ分野でも仕事をする機会が増え、その結果、「オリンピック・マーチ」「栄冠は君に輝く」等が生まれたのです。
 斎藤 特にスポーツ音楽は、独壇場といっても過言ではありません。プロ野球のほか、高校や社会人野球の応援歌を多数作曲、オリンピックも、夏と冬の大会行進曲を作曲しています。この分野は古関さんの“専売特許”みたいなものでした。
    ◇
 斎藤 最後に、古関さんは生涯約五千曲を作曲しましたが、計算上、三日に一曲作曲していることになります。とても真似のできない数です。それにジャンルの幅広さにも驚かされます。校歌、応援歌、映画音楽、オペラ、ミュージカル、民謡、クラシック、スポーツ音楽…まさにけた違いのスケールです。
 連載を振り返って思うのは、古関メロディーには絶えず、ヒューマニズムの精神が流れていることです。古関メロディーは永遠です。これからも末長く歌い継がれていくことでしょう。今後はライフワークとして古関さんが校歌を作った小、中学校に出掛け、「古関音楽の魅力や素晴らしさ」を発信していきたいと思っています。読者、関係者の皆さん、一年間、本当にありがとうございました。(おわり)

 


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