【 須賀川・2人の円谷(上) 】 幸吉を鍛えた馬の背 ただただ走る

 
幸吉の練習コース近くに造られた広場。片隅には東京五輪のレース写真や足形などを飾るモニュメントが建てられている

 須賀川には2人の円谷がいる。円谷幸吉は1964(昭和39)年の東京五輪男子マラソンで銅メダルを獲得して一躍ヒーローとなり、円谷英二は63年に円谷特技プロダクションを設立し、66年に「ウルトラマン」を制作、現在に続く日本を代表する特撮ヒーローの生みの親となった。

 「ここが幸吉の基礎をつくった」。幸吉の兄喜久造さん(85)は須賀川市南町の旧奥州街道を眺めながら振り返る。

 幸吉が本格的に走る練習を始めたのは須賀川高2年だった57年の8月下旬。夜になると県縦断駅伝競走大会に出場するため練習していた喜久造さんらに交じって、今も残る染め物店「平半染工」などの前を駆けた。「ただただひたむきに走った」と喜久造さん。

 幸吉はこの大会に病欠者の代わりとして急きょ出場し、本宮―二本松の12キロの区間で区間最高記録の快走。次に走る円谷英二のいとこ修三さんにたすきをつなぎ、本格的に陸上を始めるきっかけとなった。

 幸吉の生家の前は江戸時代まで近くに鋳物屋があったことから「鍋師橋坂(なべしばしざか)」の名を持つ。須賀川の中心市街地は四方より一段高い「馬の背」と呼ばれる地形にあり、多くの坂に囲まれている。生家は市街地に向かって上る鍋師橋坂の途中にあった。この坂が幸吉の足腰を鍛えた。

 ◆パレード熱狂

 幸吉が東京五輪で日本陸上界の救世主となり、パレードのため古里に戻ったのは喜久造さんらと駆けた夏から7年後の64年11月だった。「パレードはものすごい盛り上がりようだったと聞いている。(地元を代表する祭礼の)きうり天王祭の何倍も人が集まったのでは」。地元の熱狂ぶりを話してくれたのは2010年まで旧奥州街道沿いで「スズキ書店」を営んでいた同市大町の鈴木元さん(76)。鈴木さんは須賀川一小、須賀川一中、須賀川高と幸吉と同級生で、東京五輪当時は進学し須賀川を離れていたが、高校卒業後も幸吉との交流は続いていた。幸吉は五輪後も須賀川に戻ると必ず書店に顔を出し鈴木さんと旧交を温めた。話すのはもっぱら鈴木さん。幸吉はいつも楽しそうに鈴木さんの話を聞いていたという。「子どものころと変わらない、屈託のない笑顔だった」

 鈴木さんら大町町内会の有志が幸吉の偉業をたたえようと動いたのは10年余り前。幸吉の練習コース近くにできた広場「よってけ広場」に幸吉を記念するものをと市などに求め、幸吉の写真や足形などが飾られることになった。

 幸吉の突然の死から来年で50年。生きていれば77歳だ。幸吉が大きな自分の写真を見たらどんな顔をするだろう。取材してみたかった。

須賀川・2人の円谷(上)

 ≫≫≫ ちょっと寄り道 ≪≪≪

 【大工棟梁から菓子店に】円谷幸吉の生家前の坂を上り切り、十字路交差点近くにある「御菓子司玉木屋本舗」は、1751年に創業。木材店から大工棟梁(とうりょう)を経て、菓子作りを始めた。ゴマとクルミの二つのゆべしを幸吉の名前が入った「幸吉餅」として販売している。一つ86円(税込み)。米粉を使った「お米の純生和ロール」も人気だ。

須賀川・2人の円谷(上)

〔写真〕「お米の純生和ロール」などが人気の「御菓子司玉木屋本舗」