【 伊達・チンチン電車 】 思い出乗せて...街を見守る かつては駅前
伊達市保原町の街中にある「駅前食堂」の前に駅はない。最寄りの阿武隈急行保原駅からの距離は約1キロ、歩けば15分ほどかかる。ただ、その場所はかつて確かに「駅前」だった。
46年前まで、この辺りには「チンチン電車」の愛称で親しまれた福島交通の路面電車が走っていた。1908(明治41)年に軽便鉄道として始まった路線は26年に電化された。現在、食堂の向かいにある福島交通保原バスセンターは路面電車の保原駅だった。
車内では時に、はかまや着物を着て結婚式へと向かう新郎新婦の姿も見られた。養蚕や特産品のニットで栄えた地域を支えるシンボルとなっていた。福島市や旧伊達町、旧梁川町、旧霊山町掛田などを結んだ路線は自動車が普及していなかった当時の人々にとって貴重な交通手段だった。
路面電車を偲(しの)ぶ会会長の安斎武さん(76)によると、路面電車が「チンチン電車」と呼ばれたのは発車や停車の合図に鐘を「チンチン」と鳴らしていたことに由来する。「1回が『動け』、2回が『止まれ』だった」という。
安斎さんは小学生のころ、月に1度、チンチン電車に乗って福島市に住む祖母の元へお使いに行っていたことを懐かしむ。「運転席の近くに立って、運転士が(操作の)レバーを動かすのを見てたな」。同級生に同市の街中のことを話すと、うらやましそうにされた。
◆当時の姿復活
人々の足だった路線も自動車の普及などにより、1971(昭和46)年4月12日に廃止。チンチン電車はその役目を終えた。旧保原町の広報誌「広報ほばら」には、保原駅でお別れ会が開かれ、電車が地元小学校の鼓笛隊約200人の演奏によって送り出されたことが記されている。
鼓笛隊の中には当時保原小6年だった伊達署長の井上俊彦さん(58)もいた。トランペットを吹いた井上さんは最後に「蛍の光」を演奏したことを覚えている。今春、地元に赴任した井上さん。保原中央交流館で、あのチンチン電車が目に留まった。懐かしの姿を見ると感慨深い気持ちが込み上げたという。「あぁ、地元に戻ってきたなあってね」
井上さんが目にしたのは廃線後、福島交通が旧保原町に寄贈した「1116号」だ。保原ロータリークラブが2015年に修復した。
修復プロジェクトには個人や企業から約1000万円の寄付が寄せられた。色あせた車体や割れた車窓、朽ちていた車内の床が直され、当時の姿に。場所もより人々が見やすい位置に移された。現在は車内などを使ったイベントが開催され、再び市民に親しまれる存在となっている。
≫≫≫ ちょっと寄り道 ≪≪≪
【昔ながらの味わい楽しめる】駅前食堂は、路面電車の保原駅だった福島交通保原バスセンターの向かいにある。ラーメンや丼、定食などメニューが豊富。しょうゆ味でニラやモヤシがのり、昔ながらの味わいが楽しめる人気メニューはその名も「駅前ラーメン」。
〔写真〕元保原駅(現在、福島交通保原バスセンター)前にある「駅前食堂」。路面電車全盛時代の雰囲気が濃厚に感じられる一角だ
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