【 会津美里・瀬戸町通り(上) 】 本郷焼と一緒に成長 職人集まる
夜が明けきらない早朝から、通りが人の熱気に包まれる。人々の視線の先にはさまざまな表情をした焼き物。毎年8月、会津美里町本郷地域で開かれる恒例の「せと市」の一幕だ。改めて通りをゆっくり歩いてみると、約400年の伝統を受け継ぐ会津本郷焼の窯元の歴史と文化が、落ち着いた街並みをつくり上げたことに気付く。
全長1キロにも満たない短い通りの名は「瀬戸町通り」。焼き物の職人らが多く働いていた地域が、いつしか瀬戸町と呼ばれるようになった。瀬戸町の歴史は1647(正保4)年にさかのぼる。会津藩初代藩主保科正之が鶴ケ城などの瓦屋根の製造のために招いた職人が、この地で陶業を始めたとされる。
「本郷地域と焼き物は一緒に成長し、厳しい時代も見届けてきた」。地元の歴史に詳しい元会津史談会の森源勝さん(93)はこう話す。会津を治めた大名蒲生氏郷らが、粘土を陶土にして作る「陶器」や石を砕いた陶石を使う「磁器」の製造で焼き物の地位を築き、次第に焼き物関係の家などが通りに集まるようになった。
会津本郷焼は、幕末の戊辰戦争で地域が壊滅的な被害を受け、存亡の危機に陥った。行政などの支援を受けるなどして一から出直したが、デフレによる景気後退を受け、焼き物の需要が半減するなど陶磁器業の苦しみは続いた。
◆進歩賞が転機
しかし明治に入り、大きな転換期を迎える。1890年に政府が開いた博覧会「第3回内国勧業博覧会」で進歩賞を受けた全国11人うち、会津本郷焼の職人が6人を占めた。
一気に評価が高まると海外輸出も盛んになり、会津本郷焼は隆盛を極めた。現存する会津本郷焼で約280年の歴史を持つ閑山(かんざん)窯10代目の手代木仁さん(76)は「本郷地域の山で良質な土が発掘されたことが大きい。進歩賞の受賞は本郷焼にとって大きな出来事」と、当時に思いをはせる。
現在は、通りから入る細い路地を中心に窯元が店を構える。職人の集う町として栄えた通りは時代が進むにつれ、景色も変わった。明治以降、仕事が増えるに従って町はにぎやかになっていった。焼き物の絵付けや型取りなどの分担が細かくなり、住み込みのための部屋などが通りに増え、酒屋や商店なども並ぶようになった。
一時代を築いた会津本郷焼の技術は伊万里焼(佐賀県)や信楽焼(滋賀県)などに引けを取らない。窯元は以前よりも減ったが今も脈々と歴史を受け継ぐ。「大変な時代があったからこそ、また立ち直る日がくる」と森さん。焼き物の町は職人たちの誇りで満たされている。
≫≫≫ ちょっと寄り道 ≪≪≪
【歴史分かりやすく伝える】会津本郷焼資料展示室は、会津本郷焼の歴史を分かりやすく伝えようと、1987(昭和62)年に会津本郷焼資料館として設立。2003年に会津美里町の本郷インフォメーションセンター2階に移動した。藩政時代から現代までの陶器や磁器約200点が展示されている。見学無料。週末はボランティアガイドが展示物を解説する。時間は午前9時~午後5時。毎週火曜日は休み。
〔写真〕陶器や磁器など約200点が展示されている会津本郷焼資料展示室
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