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  【 福島の万葉歌碑TOP 】
「比多潟」(いわき)
ひた潟の磯の和布の立ち乱え吾をか待つなも昨夜も今宵も
 
 心乱れて待つ姿うたう

 昭和58年10月23日、いわき市久之浜町田之網の波立寺境内において、

 ひた潟の磯の和布(わかめ)の立ち 乱え吾(わ)をか待つなも昨夜(きそ)も今宵(こよひ)も
  (巻14・3563)

の歌碑の除幕式(建立は同月4日)が行われた。

 建立者は、元県立富岡高校長でアララギ会員(群山同人)の松田亨(本名一(はじめ))の教え子である荒教育研究所長の荒明ら旧制相馬中学の第33回(昭和10年)卒業の20人と、その趣旨に賛同した人たちである。

 歌碑は、高さが台石を含めて1.5メートル、幅が1.8メートルほど。碑文は松田が筆を執とった。歌意は「ひた潟の磯の若布のように、立ち乱れて、私を待つであろう。昨夜も今夜も」である。

 碑陰は次のとおりである。

 「万葉集第14巻3563/比多我多能伊蘇乃和可米乃多知美太要和乎可麻都那毛伎曾毛己余必母/万葉集東歌『ひた潟』の故地がいわき市久之浜町であることを歌人の松田亨(元富岡高校長 相馬市在住)の考証によって明らかにされ、更に東北大学名誉教授扇畑忠雄先生の支持論証を得て世に認められるに至った。ここに教え子並びに地方有志の厚意により後世にこれを伝えるものである。/昭和58年10月吉日/福島県いわき市/県立相馬中学校第33回卒業生有志」

 松田亨は除幕式における感慨を、次のように詠み残している。(「アララギ」昭和59年第2号所収)

 波立の波音近き境内にひた潟の歌碑いま除幕さる
 杖つきて謝辞述ぶる聲のしばしばもとぎる吾をビデオに侘しむ

 建碑のきっかけとなったのは、昭和49年に松田亨が発表した「比多潟、二つ沼、松が浦」の万葉故地に関する研究考証論文である。

 松田亨は、「ひた潟」が久之浜である根拠について「ひた潟は、ひさ潟がなまったものと推定され(『奈良時代音節表』を引用し、Fitsakata (ヒサカタ)の子音のsが発音されない形=サイレント(消音)=になってFitakata(ヒタカタ)と発音されていたのではないかと説く)、さらに「なも」が浜通りの地域語、古謡発生の可能性のある文化的な背景がある」と述べている。

 同論文は、昭和49年に集英社賞、河北賞を受け、その後、扇畑忠雄から支持論証を得て、現在では学会の定説になっている。

 昭和8、9年に松田から漢文と短歌の指導を受けたという荒明は、その後『歌人松田亨先生と浜通り万葉東歌の世界』を出版し、本碑建立の経緯などを明らかにした。

 なお、久之浜の郷土史をひもとくと、「久之浜」と呼ばれるようになったのは、領主の鳥居氏が山形に移封され、代わって内藤長政が平藩主となった元和8(1622)年後で、「ひさ」に代えて美称の「久」を使用したという記録が残っている。

=敬称略
 (福島短歌研究会会長)

今野 金哉

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波立寺境内に立つ「比多潟の歌碑」


【2008年1月16日付】
 

 

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