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善政の代表として定着
意次と比べると、松平定信は際立って評価が高い。定信は長い間、賢相とか、教養ある政治家とか、意次の対極として善政の代表者のように扱われた。定信は寛政年間後半、神道祭祀さいしに改まり、自らを神人一体とするように考え、文人姿と武人姿の二体の木彫を制作させた。
木彫には、文武両道の意味が込められていた。天明4(1784)年、定信は白河領に入ると、城内に藩祖松平定綱を祭る鎮国殿を建てたが、この霊社に寛政9年ごろ、文人姿の木彫を安置した。もう一体は、白河藩邸下屋敷浴恩園の感応殿に諸神像とともに置かれた。定信は死後を待たずに、生きている自己を神として祀まつった。
定信の死亡は文政12(1829)年で、江戸の白河諸藩邸が大火で焼失し、避難先の伊予松山藩邸においてであった。定信は没後の天保4(1833)年11月に守国霊神、翌5年4月に守国明神、安政2(1855)年に神宣(しんせん)を受けて守国大明神の神号を受けた。定信は神人一体となり、鎮国大明神として祈誓されたのである。
明治以降になっても、明治41(1908)年に明治天皇から正三位を追贈され、大正十一年には南湖神社に祀られた。定信の顕彰は、幕府側の権力が、また明治期になると新政府の権力が背後ではたらいた。
定信は、「天みづから民を治る事能はざる故に、天子をしてこれを治めしむ、天子自ら治むる事あたはざる故に、諸侯を立てゝ是を治めしむ、諸侯封内を治むは、則天子の命にして、是天の命ずる所なり、是によりて治る職は天の職にして、治る民は天の民也」という。
普遍的な天は、わが国固有の天照大神と結びつき、神格化されて皇天こうてんとなり、定信の皇天をいだくとする神国思想は、天皇の絶対性と封建制を打破して急ぎ近代国家をつくろうとする明治政府の方針と一致した。
したがって定信の評価は、明治期以降、広くいきわたり固定化していった。定信の神国思想のみならず、君臣父子の倫理観、風紀の厳正、海防の備えなどは、学制頒布や徴兵令などを次々と公布する新政府の方針と矛盾しなかった。
そのため定信の神国思想や倫理観を説く、手短な定信偉人伝が次々に出版されてくるのである。
明治23年、前述した『稿本国史眼』が出版され、定信を「英才博学」とし、「聖天子極ニ臨ミ、関東ニ賢相出ヅ、不日隆治(ふじつりゅうじ)ヲ見ント、人心頼テ安シ」と評した。次いで三上参次は、『白河楽翁公と徳川時代』で定信を高く評価した。定信を「人物も事業もともに秀でて、日本人の模範の一として景慕すべく、また以て歴史の一時期を代表せしむるに足るべき偉人」ととらえ、定信を模範的人物として私淑した。こうした定信の評価は、現場の学校教育にも取り入れられた。
(福島大名誉教授)
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磯崎 康彦
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『福島県郷土史談』に載る「感銘碑」 |
【2008年4月23日付】
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