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  【 松平定信公伝TOP 】
【 田沼意次の時代(1) 】
 
 側用取次で将軍へ接近

 田沼意次といえば、よく目にするのは意次の戯画「まいない鳥図」や「まいないつぶれ図」である。これらは『古今百代草(ももよぐさ)叢書』に載り、最初に紹介したのは辻善之助である。
 
 まいない鳥は「此鳥金花山に巣を喰ふ、名をまいない鳥といふ、常に金銀を喰ふ事おびただし、恵少き時はけんもんほろろにして寄りつかづ、但し此鳥駕籠は腰黒なり」と解説される。
 
 一方、まいないつぶれは、「此虫常は丸之内にはい廻る、皆人銭だせ、金だせまいないつぶれといふ」とある。賄賂(わいろ)で名高い意次を皮肉った画図として掲載されてきたが、近年、意次の戯画かどうか、疑問視されている。
 
 というのは、まいないつぶれの背に丸に十の字の紋があるためである。これは島津家の紋であり、意次の家紋は北斗七星をかたどった七曜紋(しちようもん)である。
 
 田沼意次は享保4(1719)年、父意行の長子として江戸で生まれた。父意行は紀州藩の足軽で、吉宗が8代将軍となると、紀州藩士を幕臣に編入するが、意行もその1人であった。晩年、小納戸(こなんど)役となっている。
 
 一方、意次は享保19(1734)年、吉宗の長子家重の小姓となり、宝暦元(1751)年に側用取次(そばようとりつぎ)となった。側用取次は、将軍に近侍して幕閣に将軍の命を伝える役職である。
 
 この役職は、5代将軍綱吉のときからはじまった。幕藩体制が確立し、幕府行政組織が整うと、おのずと役職・人事・定数などが固定化していった。すると封建社会の家格身分制度において、家柄や格式が重要視されるのは必然的である。譜代門閥組が中核に居座るため、下僚はいつまでたっても登用される機会がない。
 
 徳川綱吉は、格式によらず、民政や財政に明るく、かつ能力ある下役に対し、人材登用の道を開いた。これが側用人の制度である。
 
 もっとも幕府の財政が悪化するなか、家柄による老中の合議制では、民政・財政の諸難題に素早く対応することができなかったから、側用人の制度は必要でもあった。勘定奉行になった荻原重秀(しげひで)、側用人の柳沢吉保(よしやす)は、門閥出身者でなく、自らの才覚と努力で重用された人物であった。
 
 側用人という側近政治は、綱吉没後、6代家宣(いえのぶ)、7代家継にひき継がれた。家宣の側用人間部詮房(まなべあきふさ)は老中待遇にまで昇進したし、家宣、家継両将軍を輔佐し、幕府財政の安定につとめた新井白石は、家宣より破格な待遇を受けた。
 
 しかし両人とも、門閥組でなかった。側用人の制度は、8代将軍吉宗のとき廃止された。吉宗はこれにかわり、側用取次を置いたのである。側用取次に抜擢(ばってき)された有馬氏倫(うじのり)、加納久通、そして田沼意次は、本人また父親が、吉宗の紀州時代に仕えた格式の高くない出身者であった。
 
 田沼意次は16歳のとき、吉宗の長子家重の小姓となり、300俵を賜った。延享2(1745)年、吉宗が隠居して西の丸へ移り、家重が第9代将軍となって本丸へ居を定めると、意次もそれに従った。家重は、病弱で言語不明瞭(めいりょう)であったという。
 
 こうした身体的な負担があればこそ、吉宗は次子の宗武(むねたけ)より家重を愛(いと)おしく思ったのかもしれない。ともあれ英明な宗武でなく、病弱な家重に政権を譲った吉宗は、壮健なうちに退位を決意し、背後から家重を助けた。
 
 本丸へ移った意次は小姓組番頭格、小姓組番頭、そして宝暦元(1751)年、側用取次へ昇進した。宝暦8(1758)年には、相良(さがら)藩一万石の領主となり、旗本から大名へと進んだ。
 
 しかもこの年、幕府の政策を評議立案する評定所へ出座することになる。側用取次が、寺社奉行・勘定奉行・町奉行らの評定所へ参画するということは、異例な事態であった。
 
 意次は、立案を将軍に申し上げて裁可を得る立場にあったから、意次の地位は決定的なものとなったといえよう。

磯崎 康彦

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「まいない鳥図」
「まいない鳥図」

【2008年5月21日付】
 

 

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