minyu-net

連載 ホーム 県内ニュース スポーツ 社説 イベント 観光 グルメ 健康・医療 販売申込  
 
  【 松平定信公伝TOP 】
【 定信の登場(上) 】
 
 田安家の家系と教育

 松平定信は宝暦8(1758)年12月27日、田安宗武(むねたけ)の七男として江戸田安邸に生まれた。幼名を賢丸(まさまる)という。8代将軍吉宗には4人の男子がおり、長男は家重、次男は宗武、三男は早世、四男は宗尹(むねただ)であった。家重は九代将軍となり、宗武は田安家を、宗尹は一橋家を江戸城内に創設した。

 田安家・一橋家は、清水家を加えて御三卿といい、尾州・紀州・水戸の御三家とともに宗家を継ぐ位置にあった。

 家重は病弱で、言語も不明瞭(ふめいりょう)であったといわれる。それに対し宗武は、父吉宗に似、武芸のみならず学芸にも秀でていた。そのため老中松平乗邑(のりさと)のように、才気ある宗武を9代将軍に推す人も少なからずいたのである。

 もし宗武が家重に継いで、10代将軍となったら、定信は、11代将軍となる可能性は極めて高かった。というのは、定信には6人の兄がいたが、4人は早世、残されたのは治察(はるあき)と定国で、治察が田安家を継いだが、安永3(1774)年、22歳で死去し、子がいなかったからである。

 なお兄の定国は、明和五(1768)年、松山藩松平定静の養子となった。
 定信は幼少時代、田安家の儒臣大塚孝綽(たかやす)から漢学を学び、側近の水野為長(ためなが)より和歌を学んだ。孝綽より宋代の一三経の一書で孝道を記した『孝経』を習った。

 定信は12歳のとき、『自教鑑』を著した。『宇下人言』に、「大塚氏に添削をこひたれば、そのうちの書にしては見よきなり」とあって、師大塚孝綽が手を入れて直したと分かる。夫婦、父子、兄弟、友人など人倫の大義をまとめたものだが、父宗武はこれに喜び、父より「史記を賜ふ」と定信は記している。

 定信は12、3歳ごろ、狩野典信(かのうみちのぶ)から絵画を学んだ。典信は享保15(1730)年に生まれ、安永9(1780)年、法印に叙せられて栄川院と称した江戸中期の画家である。

 法印に叙せられる3年前、狩野尚信(なおのぶ)の拝領地竹川町は木挽町(こびきちょう)へ移り、木挽町狩野となっており、典信は同町狩野の第5代であった。10代将軍家治に気に入られ、旗下に列している。定信は典信について、
もとより画をよくして、寵遇(ちょうぐう)にあづかりけり。宝暦の頃か、朝鮮人来りしとき、栄川院も仰(おおせ)によてかの旅館へ来りて、画なんど論じたりとぞ。
と言う。

 「朝鮮人来りしとき」とは、宝暦14年こと明和元(1764)年、10代将軍家治の襲職(しゅうしょく)祝賀のために来朝した朝鮮通信使のことであろう。

 通信使は江戸時代、合計12回来朝したが、これは11回目にあたる。典信は、かれら一行に画論を述べた。滑稽(こっけい)を好んだ典信は、両手を胸の前で重ね合わせ、上下して拝する揖拝(ゆうはい)を「手を拱して少しほゝゑみ、坐したる儘にて拝」したため、笑いをさそった、と定信は伝えている。

(福島大名誉教授)

磯崎 康彦

>>> 13


松平定信「呉竹図」(紙本墨画、1784年、桑名市博物館所蔵)

【2008年7月2日付】
 

 

福島民友新聞社
〒960-8648 福島県福島市柳町4の29

個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c)  THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN