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気質受け継ぐ価値判断
定信が『源氏物語』を愛読したり、『徒然草』や西行の生き方を非難するようになったのは、父田安宗武の教えや気質を受け継いだものと思われる。
田安宗武は武芸・学芸に秀で、明治の俳人正岡子規をして「勁健(けいけん)にして高華、古雅にして清新」なる人物と言わしめた。
『源氏物語』が成立して以来、読解の指針を示すため数々の注釈書が著された。同様に『徒然草』も近世に至ってもよく読まれたため、いろいろな注釈書が書かれた。宗武の「徒然草評論」は、昭和17(1942)年出版の土岐善麿(ぜんまろ)の労作『田安宗武』第二巻に記載される。
『徒然草』の序段は、「つれづれなるままに、日暮らし、硯(すずり)に向かひて、心にうつりゆく由(よし)なしごとを、そこはかとなく書きつれば、あやしうこそものぐるほしけれ」とある。退屈に任せて、一日中硯に向い、次から次へと心に移りゆくたわいないことを、とりとめもなく書きつけてみると、変に狂おしい気持ちになる、というのである。
文中の「ものぐるほし」はながい間、多くの註釈書で兼好の謙遜(けんそん)な詞と解された。物静かに自己を客観的に見つめる兼好の態度がうかがえるとする。
しかし、宗武の解釈は異なった。宗武は「《ものぐるほしけれ》といひたるをひげ(卑下)したる詞なりと注したるおほかれど、さはおぼえず」と言う。つまり、「ものぐるほし」は兼好のへりくだった言葉でないとする。兼好は、自らの「才をしらすべきのよすがにやつく」った『徒然草』に一貫した姿勢をもたず、世の人になじられるのを恐れて、「ものぐるほし」と言ったにすぎない。宗武は、「ものぐるほし」を多くの人への「あざむき」と解した。貴人に気を配った兼好には、仏教を悟り、世間をさける気持ちなどなく、貴人から起用があれば、すぐにも仕官する気持ちがあった、と解釈したのである。
定信は、父宗武から徒然草観をどう教えられたかわからないが、かれも『徒然草』を批判した。こうした価値判断は、父の気質を受け継いだものかもしれない。
『源氏物語』に関しても、宗武は延享3(1746)年、和学御用として賀茂真淵を雇い、真淵は『源氏物語新釈』を呈上しており、定信に『源氏物語』を教えることもあったであろう。定信は、万葉調歌人として、また賀茂真淵を重用して古学を愛した父宗武のもとで育った。
こうした環境が、父と同じような国学的な考え方や趣向を定信に受け継がせたのであろう。文学のみに限ったことではない。絵画・有職(ゆうそく)故実(こじつ)などでも、父と同じ好古の気質が定信にみられるのである。
明和8(1771)年、定信14歳のとき、父宗武は57歳をもって没した。
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磯崎 康彦
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土岐善麿の労作『田安宗武』昭和17年 |
【2008年8月6日付】
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