|
政治的な利害が背景に
安永3年(1774)3月、定信は白河藩主松平定邦の養子となった。この養子縁組には複雑な問題があった。というのは、田安家を継いだ兄治察(はるあき)は、この年の7月、病にかかり、翌月22歳の若さで死去してしまったからである。
治察には子がなく、絶家(ぜっけ)の危機におちいるため、田安家ではこの縁組を解消し、定信を戻したかった。この縁組について、『宇下人言』は次のように伝える。
此家この度断絶しなば、宗武公へ何といい侍らん。賢丸(まさまる)を久松家へ養ひにやりしは、もと心に応ぜざる事なれども、執政邪路のはからいより、せんかたなく為りしなれども、ゆるしたるはわれと治察と重臣なり。断絶するときは、いかに初のこといひわけたらんとて何のかひもありなん。
文中の「久松家」は白河の久松松平家、「執政」とは田沼意次である。すると田安家は、久松松平家との養子縁組を望まなかったが、「せんかたなく」承諾したのであった。「執政邪路のはからい」とあるから、幕府中枢でなんらかの政治的利害が働いた。
意次は、門閥家で賢才な定信が将軍になることを恐れたのであろう。そこで養子縁組をすすめ、田安家への復帰を妨げることにより、定信を田安家から遠ざけたのかもしれない。
意次のほか、一橋治済(はるさだ)の政治的立場も微妙である。11代将軍家斉(いえなり)は、一橋治済の子であった。つまり、治済は将軍家継嗣の問題に関し、一橋家から継嗣を出すことを考え、養子縁組により定信を将軍候補者から排除したかったのかもしれない。この考えは、『楽翁公伝』によるが、治済が果たしてここまで読みきったか、判断に苦しむ。
安永3(1774)年、定信は白河藩主松平定邦の養子となり、田安家を去り、八丁堀にある白河藩邸上屋敷へ移った。
「涙おとして」別離を悲しむ田安家と対照的に、白河藩邸は「めでたき」こととして歓迎したのである。
安永5(1776)年、定信は10代将軍家治(いえはる)の日光廟参詣(びょうさんけい)にあたり、病身の松平定邦に代わって警固の任にあたった。このとき初めて白河領に入り、領内を視察した。
この年定信は元服し、定邦の娘峰子と結婚した。峰子は定信より5歳年上で、健康に恵まれなかったようで、天明元(1781)年29歳で亡くなった。定信との結婚生活は、5年あまりの短期間である。峰子は和歌を好んだのであろう。定信は、妻の遺歌を集めて『懐旧集』におさめた。
20歳から23歳までの定信は、日ごろの武芸に勤(いそ)しむほか、読書に明け暮れた。『宇下人言』に、
此比書物よむ事日夜のおこたりなく、人の見及たる書は――つねのたちまはる書の事也――半ばほどもよみけん。一年のうちに四百巻ほどもよみたり。温公通鑑なんど二たびくりかへしてみ侍りたり。
とある。
「通鑑(つうかん)」とは、宋の司馬光の著した歴史書『資治通鑑』で、周の威烈王から5代後周の世宗まで、1360余年間の君臣の事跡を年代順に記述した書である。この『資治通鑑』の重要部分をとり出して要約したのが、宋の朱子による歴史書『通鑑綱目』である。定信は両歴史書を所蔵し、繰り返し読み味わったのである。
定信の読書内容については、安永7(1778)年から同9年までの『読書功課録』に詳しい。この間の読書量だけでも、数百冊に及ぶ。従来の儒教の基本的な経典『易経』・『書経』・『詩経』・『礼記』・『春秋』、後世の儒教の根本経典『大学』・『中庸』・『論語』・『孟子』の4書は当然のことながら歴史書、文学書、国書など多方面にわたる。歴史書には、先の通鑑のほか『史記』・『漢書』・『後漢書』などである。
わが国の古典としては『日本書紀』『大日本史』などで、珍しい著作に朱子学と対立し実践を尊んだ中江藤樹の『藤樹先生行状』や『同書簡』、朱子学派から非難された荻生徂徠の『辨道』などである。
定信は、朱子学に対立する陽明学派や〓園(けんえん)学派の書籍も広く読んでいた。蔵書類から判断すると定信は、朱子学の理気などの窮理(きゅうり)的問題より歴史書に興味があったと思われる。
※〓はくさかんむりに、下左側「言」、右側「爰」
(福島大名誉教授)
|
磯崎 康彦
>>> 19
|
楽翁公遺書 |
【2008年8月13日付】
|