minyu-net

連載 ホーム 県内ニュース スポーツ 社説 イベント 観光 グルメ 健康・医療 販売申込  
 
  【 松平定信公伝TOP 】
【 老中首座前夜(上) 】
 
 天明の飢饉で救済策

 天明3(1783)年7月、浅間山が噴火し、3日間続いた。大爆発とともに、溶岩流が火口北側から東北方向へ流れ出し、近傍の民家を倒壊させ、人畜・家屋・田畑に多大な被害を与えた。吾妻川には堰堤(えんてい)ができ、泥流は利根川に流れ込んだ。火炎をまじえて立ち上る黒煙は、江戸にまで降灰させたという。

 浅間山噴火は、天明2年の全国的凶作の翌年であった。天明の飢饉は、享保の飢饉、天保の飢饉と合わせ江戸期の3代飢饉の1つである。

 なかでも天明3年は、4月に雨が少なく、5月から8月にかけて多雨となって河川が氾濫(はんらん)し、7月に噴火という大惨事が追い打ちをかけた。黒煙による日照時間の減少や降灰による低温などにより、関東、東北は秋になっても収穫がなかった。東北の陸奥・陸中・陸前は惨憺(さんたん)たるものであった。

 こうしたなか、定信は天明3年10月、定邦の家督を相続し、白河藩主となった。松平越中守定信の誕生である。もっとも白河藩とて凶作のため、急ぎ救済策を講じなければならなかった。定信は、出府した白河藩家老吉村又右衛門はじめ江戸在住の家臣を集め、質素倹約を訓示し、自らその範となることを述べた。

 『宇下人言』に「おどろくべきにはあらず。凶には凶の備をなすぞよけれ。いでこの時に乗じて倹約質素の道を教へて磐石のかためなすべし」とあり、次いで「倹約質素はわれを手本にせよ」とある。

 そこで定信は、家臣領民に次のような御触書を発した。

 銘々(めいめい)分限に応し奢ケ間敷(おごりがましく)無事之、常々酒給勝負事を好ミ不相応の衣類・脇差物数寄を堅く致間敷(いたすまじく)候、百姓農業を精出し荒れたる地を少したりとも開くこと天道への勤め、神仏の助け自ら有之事(これあること)に候……大守様常ニ木綿の御召物にて朝夕の御膳等一汁一(いちじゅういち)、二菜(にさい)にて御身を被為詰候て万事御守強く、御家中へも思召(おほしめし)を御直々被仰付候(おおせつけられ)、御倹約之義ニ不限、御身の上を手本に致し相守候様被仰付候(『白河市史』)

 定信は飢饉にさいし、家臣らに質素倹約を、農民に荒地の開墾による作物の増産を命じた。

 白河藩とて東北諸藩と同様、「凶年にして万頃(ばんけい)一毛のたつるなし」といった状態で、「城下にたくはへし米もなし」といった有様であった。そこで米穀買入れに奔走しだした。

 天明3年9月6日、松平越中守の留守居日下部武右衛は、会津藩江戸屋敷へ赴いた。日下部は、夏以降雨が降り続いたため米不足となり、家臣や領民への手当てができず、そのため「御領内より江戸表え御廻米(かいまい)之内、白川城下ニテ申請、於此表米金之内御好次第返納仕度候、此段(このだん)何分御厚弁被下、早速御懸り御役人中へ宜被仰付被下候様、御願被申度候」(『家世実紀』)と願い出た。

 廻米の数量については、「江戸御廻米之内六千俵御渡被下候ハゝ、於江戸十月より十二月まで六千俵、御扶持米無差支相備可申候間、御廻米と御差替被下度由相願候」とある。

 結局、白河藩は会津藩との交渉に成功し、会津藩の江戸廻米を10月上旬1000俵、10月中旬2000俵、11月と12月に1500俵ずつ、合計6000俵を購入できたのである。

(福島大名誉教授)


磯崎 康彦

>>> 21


定信の書「礼国之紀」
定信の書「礼国之紀」

【2008年8月27日付】
 

 

福島民友新聞社
〒960-8648 福島県福島市柳町4の29

個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c)  THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN