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  【 松平定信公伝TOP 】
【 老中首座(4) 】
 
 将軍輔佐で人事を刷新

 側衆が罷免(ひめん)されたとはいえ、定信の周辺にはまだ田沼派の残党者がいた。水野忠友(ただとも)、牧野貞長(さだなが)、松平康福(やすよし)といった老中の面々である。水野出羽守忠友は若年寄、側用人、老中格、そして天明5(1785)年に老中となり、また加増されて駿河沼津三万石の大名となり、意次に忠義をつくして勤めた。
 
 牧野越中守貞長は、常陸笠門八万石の大名で、奏者番(そうじゃばん)、寺社奉行、大坂城代、京都所司代を経、天明4年に老中となった。松平康福は宝暦12(1762)年に老中となり、老中在任期間は長期に達した。みな意次の権勢のもとで登用された人物である。こうした状況下では、政綱(せいこう)を発表したとはいえ、思いどおりに遂行(すいこう)できず、かといって老中を簡単に解任することもできなかった。
 
 天明8年3月4日、定信は一橋治済と紀伊・尾張・水戸の御三家の協力のもと、将軍輔佐(ほさ)役となった。前年11代将軍となった家斉は、このとき15歳の若弱であった。
 
 将軍輔佐は老中以上の役職であるところから、定信は人事を刷新することができたのであろう。
 
 水野忠友は天明8年2月に、松平康福は同年4月に、牧野貞長はすこし遅れて寛政2(1790)年2月に老中を解任された。新たに老中に就任したのは、

 天明8年4月 松平信明(のぶあき)
 寛政元年4月 松平乗完(のりさだ)
 同2年2月  本多忠籌(ただかず)
 同2年11月 戸田氏教(うじのり)
であった。みな定信と刎頸(ふんけい)の交わりをした中小譜代大名らである。

 松平信明は三河吉田藩主で、奏者番、側用人を経、天明8年老中となり、定信とともに寛政の改革を進め、定信をして才知・才能のするどき人物と言わしめた。享和3年に辞職するも、文化3年に再任され老中首座となった。
 
 松平乗完は三河西尾藩主で、奏者番、寺社奉行、京都所司代を経、寛政元年老中となった。奏者番、京都所司代を経へ老中になっているから、比較的お決まりの出世コースを踏まえたといえる。
 
 乗完は、〓園(けんえん)学派の流れをくむが、定信よりその能力を評価された。和歌を善くし、定信と文事の話し相手ともなった。しかし定信と少し距離をおいた人物のようである。寛政2年、42歳で死亡した。
 
 本多忠籌は陸奥泉藩主(現在のいわき市南部)で、天明7年若年寄、側用人を経、寛政2年定信に抜擢(ばってき)されて老中格となった。定信と膝(ひざ)を交えて政治や人道について話しあう仲で、定信と同じように質素倹約を常としたという。
 
 定信はここぞというときに、金銭や米を投じ、「名誉の人なり」と称賛している。「勇偉高邁(こうまい)」なる忠籌との親交は厚く、定信をして「予多く交れども忠籌朝臣のごとき人はなしといふべきほど也」といわしめるほど、両人は格別な関係であった。
 
 戸田氏教は美濃大垣藩主で、奏者番、寺社奉行、寛政2年に側用人から老中となった。寛政の改革では抑商政策をだし、定信は、「弁才もあり、よく物にかんにんするの性」ありと言う。
 
 このほか越後長岡藩主牧野忠精(ただきよ)は天明7年に寺社奉行に、備中松山藩主板倉勝政は天明8年に寺社奉行に、柳生久通は勘定奉行に抜擢された。前述の本多忠籌も天明7年に若年寄となり勝手掛を命じられた。こうした事情をあげれば、人事一新は老中職にとどまらず、若年寄や三奉行までに及び、「職々の御人を精撰あらるべき事」をなしたといえよう。定信は天明7年、意次に追罰をくわえた。意次は領地を没収され、隠退蟄居(ちっきょ)を命じられたのである。
 
〓くさかんむりの下に、左側「言」、右側「爰」
(福島大名誉教授)

磯崎 康彦

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将軍輔佐で人事を刷新
いわき市泉町の泉神社にご神体として祭られる、同市南部を治めた泉藩の2代目藩主、本多忠籌の像

【2008年10月1日付】
 

 

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