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名代官登用で農村復興
寛政の改革では代官所の改革が進められ、多くの郡代・代官・手代が放免された。能力のある人物が代官に登用され、現地に赴いて直接農村を支配するばかりか、村政を徹底させるため、数カ村から20カ村の単位で惣代が選出され、新任者には幕府の認可を受けさせた(『御触書天保集成』、『牧民金鑑』)。名代官が輩出したのもこの時期である。
常陸の代官岡田寒泉(かんせん)・真岡の代官竹垣直温(なおひろ)らであり、本県に係(かか)わる寺西封元(たかもと)も、そうした1人であった。
寛延2(1743)年、芸州浅野家に仕える下級武士の子として生まれた寺西封元は、寛政4(1792)年、陸奥塙(はなわ)代官に登用された。白川郡塙領は、享保14年、棚倉藩主太田資晴すけはるの所替えにより、白川郡67カ村、菊田郡、常陸国多賀郡など合わせて五万石余の幕府直轄地であった。
塙代官所に着任した寺西は、荒地起返しは言うに及ばす、人口増をはかるため間引きを禁じ、赤子養育費や子育手当金を支給し、天明飢饉(ききん)以後の農村の復興に努力した。寺西は幕府から五千両を借り受け、近隣の大名や私領の農民に年利1割で貸し付け、その利子をもって農民救済資金としたのである。
荒地起返しに関しては、起返し1カ年作り取りとし、翌年から上納の3分の2を免じたり、半免とするなどの工夫をこらし、耕作できる田畑に復帰させるよう努めた。寺西は寛政5年「寺西八ケ条」を出し、文化8(1811)年、近隣諸藩へも「御料私領申合民風御改正申渡書」と「寺西十禁の制」を告示した。農民の農業出精・奢侈(しゃし)の禁止・新規商売の差し止めなど、また十禁に勧農・博奕の禁・絹布着用の禁などの条をあげ、塙領内のみならず近隣諸藩の村々に対し農民の取り締まりと教化をはかった。(『塙町史 第一巻』)
寺西はこのほか、人口を増やすため『子孫繁昌(はんじょう)手引草』を著して各村に配布し、間引きや堕胎がいかに人道にかけはなれているか説いた。この著作は好評で、会津大沼郡の慈善家五十嵐富安により善書として再版されている。
文化11(1814)年、寺西は桑折代官所へ移り、塙・小名浜・桑折・川俣の幕領十四万石を支配した。文政10(1827)年、寺西は79歳で桑折で没するが、ほぼ35年間代官職を務めた。
幕府は多くの代官を交代させ、手代に任せず代官自身を農政に直接係わらせ、また備荒策や村入用の減額などにより農村の復興に努めたのである。
定信の農政思想は、「貴金賎穀(ききんせんこく)の風」を改めることであった。「米をいやしみ金を尊み、日夜目先の事のみ思」う風潮を憂えたからである。定信は『物価論』で、「多波粉(たばこ)を造り、又はこがひし、又藍(あい)紅花など作りなんどして、地力を無用に尽し、常に労なくして金を多く得る事を好むによりて、米は弥(いよいよ)少なくなりぬ」という。煙草(たばこ)・藍・紅花などの換金作物を熱心に栽培したため、米が少なくなったという。換金作物を栽培する農民は、利益を追求する町人と同じである。「利を以て導き候得ば利を以て従」い、利のみに走ることは自然の摂理なのである。だから煙草や紅花のような換金作物は、幕府の規制対象とされた。定信にとって農政の中心は、あくまでも米などの穀物生産であった。
寛政3(1791年、穀物生産を全国的に奨励した。とはいっても、菜種や綿種といった作物栽培は、すでに既存し、かつ灯油や衣服という生活に必須な原料作物であるところから、例外の商品生産として認めざるを得なかったのである。(『御触書天保集成』)
(福島大名誉教授)
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磯崎 康彦
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松平定信画「鷹(たか)之図」 |
【2008年10月15日付】
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