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棄捐令で幕臣を“救済”
札差を特権的な地位から決定的に引きずりおろしたのは、棄捐令(きえんれい)であった。定信は旗本・御家人の窮乏を救おうと、寛政元(1789)年初めころから、棄捐令の具体的な内容に着手した。定信を中心に検討されたが、定信と勘定奉行久世広民(ひろたみ)との間には、札差の債権処理や利子の引き下げなどについて意見の相違があり、さらに町年寄樽屋与左衛門が参画して仕法改革案へ助言や提案をし、棄捐令はまとめ上げられた。
とりわけ棄捐令発布後、札差が多額の金銭的損害を被れば、店を閉ざしたり、旗本への再融資を拒否してしまうに違いない。これでは直参を救おうと出した棄捐令により、かえって旗本らの生活を苦しめる結果となってしまう。
そこで久世は、棄捐令発布後の札差を助けるため、公金を貸し付ける案や札差への資金貸付機関となる会所の設立を考え、定信に提案した。新たな会所案は、出資者を江戸・京・大坂の豪商とし、運営を経営のよい商人に任せ、出資金を年利1割で札差に貸し、その利益の配分や役割まで考えた案であった。(北原進「寛政の棄捐令について」『論集日本歴史八』、北原進『江戸の札差』)
定信、久世、樽屋の意見を踏まえ、寛政元年9月、棄捐令が発布された。御触書、町奉行から札差に申し渡された書面、樽屋からの書面により、棄捐令の骨子をまとめると、
一、天明4年以前に札差からの借金は、理由のいかんを問わず棄捐(破棄)する。
一、天明5年4月から寛政元年までの借金は、元金、利子とも年利6%に下げ、年賦返済とする。
一、寛政元年以後の利子は、年利12%に引き下げる、というものである。
棄捐令が出されるや、江戸中大さわぎとなった。「上へ下へと相返し有難がり悦び候よし」という有様(ありさま)であった。旗本・御家人が、「夢ではないかと小おどり」して喜んだことは言うまでもなかろう。
一方、札差は突然の棄捐令に驚き、株仲間の一致協力のもと旗本らへの金融を拒絶した。88人の札差の債権損失額は、118万両余に上った。棄捐額は伊勢屋四郎右衛門の8万3000両を最高とし、単純計算すれば、1人平均1万3000両余りとなる。
久世広民が提案した札差経営のための資金貸付会所は、寛政2年、浅草猿屋町に猿屋町会所として具現された。しかし、久世が提案した江戸・京・大坂の豪商による出資者は、江戸在住の富裕商人に変えられた。会所貸出金規矩の制定、町会所の普請、さらに町年寄樽屋与左衛門が任に就くことにより、猿屋町会所の運営は動き始めた。
勘定所御用達の10人が、会所の貸出金を出資し、経営不振の札差を吟味した上で、彼らに資金を貸し付けた。しかし、札差が不足資金を借りる際、仲間の連帯保証を必要とし、かつ借し手の旗本の氏名や役職などを詳述しなければならなかったから、札差にとって会所は必ずしも簡便な機関ではなかった。
猿屋町会所は、棄捐令をはじめ、札差米売方仲間の解散、さらに米問屋の米相場への参入許可により、米仲買の性格をなくした札差の経営援助機関であり、札差の監視機関ともなった。同時に豪商の蓄積した貨幣を流通させる機関であった。
定信は棄捐令により幕臣の財政を立て直し、幕藩制の秩序と護持を目指したのである。
(福島大名誉教授)
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磯崎 康彦
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三上参次『白河楽翁公と徳川時代』(明治24年) |
【2008年11月26日付】
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