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  【 松平定信公伝TOP 】
【 寛政の改革・奢侈と倹約(上) 】
 
 高騰した米価引き下げ

 寛政の改革のさなか、定信の当初の関心事は、高騰した米価を引き下げることであった。幕府は米価の安定に成功したものの、寛政元(1789)年には米価の低落がみられた。米価は諸物価を決める基本であるから、諸物価も安定するはずであった。しかし、諸物価は引き下がらなかったのである。

 こうした状況下、定信は「山下幸内上書」に接し、寛政元年末ごろ『物価論』を著した。「山下幸内上書」とは、8代将軍吉宗の政策を批判した山下の意見書である。山下はこの上書の「衆人奉評品」で、「将軍様御始末被遊、金銀御溜め被遊候へは、一天下之万民皆々困窮仕候」とか、「金銀箔類御停止、さて又子供手遊の大人形雛の道具等、結構なるものの類(たぐい)御停止被遊趣、乍恐(おそれながら)御器量せまく、則日本衰微(すいび)の元にて御坐候」などと言う。

 こうした発言をみても、山下は緊縮政策による支出抑制、倹約による消費抑制に批判的であったと分かる。

 山下は奢侈(しゃし)について、「奢と申ものは、下を困め上たるものゝ媱逸遊興(よういつゆうきょう)を悉(ことごと)く仕るを奢とは申候、金銀沢山に持たるものの高値に成ものを調候を奢とは不申候」という。つまり奢侈とは、下を困らせるような戯(たわむ)れや酒宴に興じての遊楽で、高価なものを買い求めることとは違う。山下は、吉宗の奢侈禁止に反対で、金銀を放出し消費の拡大策を説いた。

 定信は、自らの政策と異なる「山下幸内上書」を借りだし、幕閣の松平信明(のぶあきら)、松平乗完(のりさだ)、本多忠籌(ただかず)に回覧し、意見を求めた。本多忠籌は前者の2人に比べ、ながい返事をおくった。忠籌は金銀を放出する策にも一理あるが、「只今は時節はやきかとも奉存候」という。さらに「天職は天の徳に則り被行候事と奉存候へば、金銀は何程(いかほど)つかひ候ても地より生じ候と申は、一端聞えたる大量、快然の至に候へ共、日本の内ばかり廻りては居不申、制度なき時は国虚(むなし)、民困(くるし)めバ却て天心に被違候哉と愚考仕候」と答え、山下の拡大策に疑問を投げかけた。

 定信は「山下幸内上書」を踏まえて、『物価論』を著した。たいへん興味深い著作で、諸物価高騰の原因とその処理策を述べている。定信はこの著の最初に、「近年物価は何故に高くなり候哉、近年諸運上多くなり候間、物価高くなり候と申候か、弥(いよいよ)左様に候哉」と自ら問題提起し、「成程(なるほど)左様なる事も可有之候」と自答している。つまり物価高の第一の要因は、馬や船などの輸送手段に係(かか)わる運上の費用である。

 次に定信は、「丁銀をも吹潰(ふきつぶ)して弐朱判になしたるによりて、銀の位は数少なきを以て高くなり、金の位は弐朱判金の通用をなし候間、金の数増し候を以て位をひくゝす」と言う。「弐朱判」とは、南鐐二朱銀(なんりょうにしゅぎん)であることは言うまでもない。定信は二朱判の流通を禁止するのでなく、問題は過剰な鋳造量とみた。そこで二朱判、さらに田沼期の四文銭の鋳造を停止し、金銀銭相場の均衡化を図ったのである。

 定信は運上金、冥加(みょうが)金の制度を肯定するが、ただ「利を貪るもの、冥加を出して我得分にせんという者多くなり来るによりて、自然と好利の風みちわたり、人々利をたくましうして、遂に諸物も貴くなりぬ」という。利潤追求のみの在り方や傾向が、物価高をまねくのである。

 また米価高騰の原因は、生産の減少である。生産が減少したのは、米を酒造に費やして消費し、土地を米作のかわりに煙草や藍紅花に転用したからである。さらに農業人口が減少し、農家が力作を嫌い怠慢になったことを理由として挙げる。農業人口や生産が減少する一方、都市では非生産者が増大し、贅沢(ぜいたく)にふける町人の消費拡大があれば、当然物価は高騰する。つまり物価高の要因は、「費すもの多く、生する者少なき」ということになる。

(福島大名誉教授)

磯崎 康彦

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聖橋(ひじりばし)から見た湯島聖堂

【2008年12月3日付】
 

 

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