|
諸派が風俗乱すと判断
徳川家康が政治の根底を文教におき、林道春(羅山)を用いると、朱子学は幕府の教学の中核となり、儒学の正統とみなされた。
朱子学は、宋代の朱熹(しゅき)によってなし遂げられた道学である。朱熹によれば、万物は気と気の固定化した質との結合から生じ、万物はすべて理を宿すという。人間に宿る理は本然の性であり、自ら備えた性質・心情といえる気質の性とは異なる。気質の性から本然の性に帰るため、本然の性を窮(きわ)め知る(窮理(きゅうり))ことが大切である。さらに本然の性を自己のなかに存養(そんよう)しなければならない。
具体的に理を窮めるには、『大学』・『論語』・『孟子』・『中庸』を学ぶことである。
わが国の朱子学は、古く禅僧によって伝えられ、江戸期には徳川家侍講の学となった。林羅山(らざん)は、上下定分の倫理を朱子学の理気説や宇宙万物の陰陽説から演繹(えんえき)して、君臣父子の上下関係を明らかにし、わが国の封建的道徳への倫理的根拠を与えた。
林羅山は上野忍岡の私塾で門弟の教育にあたったが、孫の林鳳岡(ほうこう)(信篤)のとき、湯島に移され、私塾は孔子廟(びょう)などを加えて昌平黌となり、鳳岡も大学頭となった。鳳岡以降、林家に才気ある人物が出ず、また入学資格に厳格な身分制度などがあり、朱子学は以前のように振わなかった。理気哲学に浸る朱子学では、現実の諸問題に対応できなくなったのである。
しかし儒学界には、朱子学に対抗するかのようにすぐれた学者があらわれた。陽明学を唱える中江藤樹、古学派の伊藤仁斎、けんえん学派の荻生徂徠(おぎゅうそらい)らであり、かつ各派の長所を総合した折衷学派も出てきた。江戸のけんえん学派は、すぐれた学者文人を多く出し、朱子学をしのぐほどの勢をみせた。
これらの諸派は、実践的役割を果たさない、と朱子学を批判したばかりか、文意や語句を独自に解釈して自派を擁護し、他派との論争を展開した。『論語』一書にしても、二十余種の解訳があるという状態で、自派の解釈に固守した。とりわけ定信は、諸派の末輩や折衷派の小人の意見を雑(ざっぱく)でうるさく、乱れていると感じたのであろう。「今の世、学問するもの、経書に新意加へて、様々に吾説をてらふぞ、なげかはしき」と言うのである。定信は、諸説紛々の学説が泡のようにたぎる状態を嘆いた。
みだれたる世のいまだおさまらざるうちに、はや御神のかゝる事をはからせ給ひければ、道春といふ人をあげ給ひて、代々の学のめあてしるしをたて置給ひにければ、藤樹・蕃山・伊物の徒出たれども、おほやけの学の道はかはる事なし。もしひとの心のまにまに、をのがさまざま論説を経文に加へなば、代々の大君の御説よりして、諸侯・大夫をはじめ、おもひよることいひたらば、何をもて後の世を救ひなん。
(『花月草紙』)
陽明学派も古学派も諸説を展開するが、家康が用いた林道春の朱子学を「おほやけの学」としてこそ、後世を救えるという。定信は、諸派の学者が道を講じながら、道に暗く、かえって風俗を乱していると判断し、学政刷新の必要性を感じとったのであろう。
(福島大名誉教授)
|
磯崎 康彦
>>> 36
|
大成堂(孔子廟)=湯島聖堂 |
【2009年1月14日付】
|