minyu-net

連載 ホーム 県内ニュース スポーツ 社説 イベント 観光 グルメ 健康・医療 販売申込  
 
  【 松平定信公伝TOP 】
【 寛政の改革・寛政異学の禁(下) 】
 
 儀の権威回復への道

 定信は、武士が町人風の文化にそまり、現世の享楽的な気分に浸り、黄表紙や滑稽本など書くことを憂慮した。出版統制令の背後に、武士は武士の本分をわきまえるべしという士風刷新が感じとれるのである。

 寛政2(1790)年5月、異学の禁令が発布された。

 朱学の儀は慶長以来、御代々御信用の御事にて、既に其方家代々右学風維持の事仰せ付け置かれ候に候得者(えば)、油断無く正学(せいがく)相励み、門人共取立申すべき筈に候。然処(しかるところ)近来世上種々新規の説をなし、異学流行、風俗を破候類(たぐい)之有り、全く正学衰微の故に候哉、甚相済まざる事にて候。其方門人共の内にも右体学術純正ならざるもの折節(おりふし)はこれ有る様にも相聞え、如何に候。此度聖堂御取締厳重に仰せ付けられ、柴野彦助(栗山)、岡田清助(寒泉)儀も、右御用仰せ付けられ候事に候得者、能々此旨申し談じ、急度(きっと)門人共異学を相禁じ、猶(なお)又自門に限らず他門に申し合せ、正学講窮(こうきゅう)致し、人材取立候様相心掛申す可く候事。(『徳川禁令考』)

 昌平黌では朱子学を正学とし、それ以外の儒学の講義を禁じたのである。

 異学の禁が発せられるや、反論がすぐに起こった。塚田大峯(たいほう)は定信に上書し、禁令を批判した。大峯は、武に諸流派があるように、「学問にも種々の各目附候へ共、何レニも聖人の教に依て、天下の人を孝悌忠信仁義の道に誘引仕る者ニ御座候はゞ、何流にても世上大勢有之程、大平の御政務の万分一の御益にも可相成事ニ御座候半と奉存候」という。人は気質が違うように、学問もその人の好みによって流派を選んでよい、という。

 栗山の友人で、赤穂藩の儒官赤松そうしゅうも、批判の書簡を栗山に送った。そうしゅうにとって、朱子学を正学とし他を排除するのは、「偏僻(へんぺき)」(かたよった考え)であった。

 朱子学のみを正学とすれば、「皇朝博士家説経(けいをとく)、自古(いにしえより)至今、遵用(じゅんよう)旧典、専依(もっぱら)注疏、不従程朱、豈(あに)謂皇朝用邪学(じゃがく)、而可也哉(かならんや)、由是観之(これをみれば)、唯(ただ)宋儒学、謂之正学、是亦私言不通(しげんふつう)之論也」という。そしてかつて朱子学を大いに研究した藤原惺窩(せいか)にしろ、林羅山にしろ、決して「偏僻」の人でないという。(以上日本思想大系四七、『近世後期儒家集』)

 しかし、幕府が朱子学を正学とみなすことにより、諸藩も順次、幕府の方針に従っていった。米沢の興譲館(こうじょうかん)、仙台の養賢堂、名古屋の明倫堂、岡山の学館、萩の明倫館など藩学を朱子学とした。定信のおひざ元である白河の立教館も朱子学としたことは贅言(ぜいげん)を要しない。

 立教館は、寛政3(1791)年に白河城下会津町に整備された藩校である。享和2年に改築されて規模を拡大したが、文化6(1809)年の大火で焼失してしまった。定信はすぐに再建を命じ、また同6年10月に自ら「立教館令条」を著した。この令条に、

 経義においては自己の見をなすべからず、弥々永々程朱の説を可守事
と明記している。

 定信は異学の禁をもって、世上の思想界を統一したり、朱子学以上の学問を排斥したり、藩学を規定するような意図はなかったであろう。このことは、後述の蘭学をみてもすぐ分かる。朱子学を正学としたのは、幕臣の官吏登用のための学的秩序を明示し、忠孝精神を確固たるものとするためであった。つまり、徳川家が正統とした朱子学を踏襲することこそ、幕制を護持させ、公儀の権威を回復させる道だったのである。

(福島大名誉教授)

磯崎 康彦

>>> 38


杏壇門=湯島聖堂
杏壇門=湯島聖堂

【2009年1月28日付】
 

 

福島民友新聞社
〒960-8648 福島県福島市柳町4の29

個人情報の取り扱いについてリンクの設定について著作権について

国内外のニュースは共同通信社の配信を受けています。

このサイトに記載された記事及び画像の無断転載を禁じます。copyright(c)  THE FUKUSHIMA MINYU SHIMBUN