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朝廷側では宣下促進論
尊号宣下の儀は、天明2(1782)年ごろから考えられていたようである。内談を受けた幕府は、典仁(すけひと)親王の家禄を加増し、待遇改善を図った。しかし朝廷側は尊号宣下をあきらめず、光格天皇は尊号宣下の先例を中山愛親(なるちか)に調べさせた。その結果、承久年間に後堀河(ごほりかわ)天皇の父守貞親王に、文安年間に後花園天皇の父貞成親王に太上天皇の尊号を贈っていたことが分かった。
寛政元(1789)年、尊号宣下の伺書が宣下の事例を加えて、京都所司代太田備中守に差し出され、所司代から幕府に報告された。これを受けた定信は、すぐに尊号問題を老中と評議した。定信は、
只(ただ)仮りの御虚号に候ても、御私の御恩愛によりて、御位(みくらい)を踏まれず、御統記を受けられずして、太上天皇の尊号これあるべき御道理、曾(かつ)て御座なく、殊に尊号宣下と申儀は、猶(なお)以て御道理如何の筋に存じ奉り候。御名器は御私の物にこれなき所、右の通に相成候ては、御筋合(おんすじあい)然るべきからざる儀に御座候。
との判断であった。名分論を重視する定信は、皇位に就かずに太上天皇の尊号を贈ることは道理に合わない、という。ついで、伺書にあげた後堀河天皇と後花園天皇の両父への尊号宣下について、「是等の御先例は、いづれも承久・応仁衰乱の時の儀にて、御引用これあるべき儀にては、曾てこれあるまじく存じ奉り候」という。
先例は承久の乱、応仁の乱の戦時であって、範例とならないとする。幕府は尊号宣下を適当でないとし、その旨を所司代太田備中守に返答し、朝廷に再考を促した。
定信はさらに、関白鷹司輔平(たかつかさすけひら)に私信を送り、古今の事例を挙げて、尊号宣下の不適切なることを説得した。定信の知友鷹司輔平は了解したが、すぐに朝廷側の意向に押し切られてしまったのであろう。尊号宣下は天皇の孝心より出た問題で、幕府側の再考を求める書簡を定信に送っているからである。
幕府と朝廷が対峙(じ)するなか、寛政3年4月、朝廷側は尊号宣下に代わる妥協案を出した。小一条院(こいちじょういん)の先例である。小一条院とは、67代三条天皇の皇太子敦明(あつあきら)親王である。寛仁元(1017)年、天皇死去に際し、皇太子を辞して小一条院の院号を授かり、太上天皇に準ずる待遇となった。定信はこの案を考慮し、とりわけ待遇改善については、儒官柴野栗山や勘定奉行久世丹波守らと協議している。こうして尊号問題は沈静化し、解決するかのようにみえた。
鷹司輔平は、尊号問題を円満に解決しようとしていたが、寛政3年8月関白の職を辞し、一条輝良(てるよし)がその後任となると、尊号問題は再び表面化した。
尊号問題は同年12月、参議以上の公卿を集めて賛否というかたちで朝議にかけられた。その結果は、鷹司輔平と息子が反対するのみで、一条輝良ら多くの公卿が賛成する有様であった。朝廷での宣下促進論が一気に強まったのである。
寛政4(1792)年、武家伝奏(でんそう)は京都所司代に書面を送り、尊号宣下の承認、閑院宮邸の増築、4、5000石の給付などを要求した。朝廷側とすれば、尊号宣下して名実を正すことが、光格天皇の実父への崇敬の孝道なのであった。
幕府側はもとより尊号宣下に不同意であった。定信は以後の進展を考え、悪しき尊号宣下は孝心とならず、時間をかけて宣下をあきらめさせ、家領増加の問題と変わった時点で妥協するという方針をとった。それでも宣下すれば、処罰をもって対処するという考えである。
その後、朝幕間で何度となく応答をくり返したが、両者に満足のいく解決はなかった。寛政4年8月、伝奏正親町公明(おおぎまちきんあき)と萬里小路政房(までのこうじまさふさ)の書簡が、京都所司代より幕府に届けられた。幕府の回答引き延しに業を煮やし、「当年新嘗祭の節までも御沙汰(さた)なく候ては、御親祭の節、甚以叡慮(はなはだもってえいりょ)安からず、黙止(もだ)され難御子細在らせらるる由、よって当11月上旬には御決定宣下せらる可候」と宣下の期限を規定したのである。
(福島大名誉教授)
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磯崎 康彦
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南湖公園にある南湖十七景歌の歌碑 |
【2009年2月11日付】
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