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一貫して名分論を固守
朝廷側の11月上旬の尊号宣下の通知に対し、定信は老中と相談して意思を統一し、尊号宣下の無用を公然と回答した。
これに対し、正親町公明(おおぎまちきんあき)と萬里小路(までのこうじ)政房の両伝奏(でんそう)は、「御名器(ごめいき)軽ろかざる儀とのみ、簡易の御返答に相任せられ、臣下へ仰せ出され候ては、其の訳分明ならず」という。
さらに尊号なくして、太上天皇に相応(ふさわ)しく御所を造営したり、御領を加増したりすることは、「畢竟(ひっきょう)、御名器の違乱」と反論し、11月上旬の宣下を再度通告してきた。
定信はここに至り、老中と協議し、尾張、水戸家らの賛意を得て結論を出し、将軍に伺書を提出した。尊号宣下を従来通り無用と再確認し、尊号宣下を主張する中山愛親(なるちか)、正親町公明、広橋伊光(これみつ)の三卿を江戸へ召喚するよう所司代を介して告げたのである。
緊張状態が続くなか、朝廷は幕府の意見に従い、尊号宣下を中止した。しかし、これで一件落着といかなかった。朝廷側は、宣下中止により三卿の江戸への召喚を必要なしと考え、納得しなかったからである。
その後、朝幕間は紆余(うよ)曲折するが、朝廷側は結局、幕府側の譲歩もあって、前(さきの)大納言中山愛親と正親町公明の両卿を江戸へ向かわせた。幕府側の要請は寛政5(1793)年正月20日と期限付きであったが、同月下旬の下向であった。両卿は出立に際し、宸翰(しんかん)を持参した。
宸翰持参により、幕府の主導でなく、天皇命による下向というかたちをとりたかったのであろう。さらに江戸での審問に際し、両卿への配慮を考え、幕府の一方的な処置に釘(くぎ)を刺したかった、と思われる。
2月中旬江戸に着いた中山、正親町両卿は、2月中旬から下旬にかけ、定信の役宅、城中、松平乗完(のりさだ)の官邸で計3回詰問された。定信は当初より、詰問の内容を精査し、その順序を整え、同僚と協議して将軍の認可を得るなど準備を怠らなかった。
審問は、尊号宣下の中止による天皇の心情、勅問衆(ちょくもんしゅう)の評議、御領加増、宸翰の内容や意味などに関する問答である。
定信は、両卿を別々に詰問し、両卿の回答する話の矛盾や齟齬(そご)を指摘した。こうして定信は3月7日、老中戸田氏教の官邸で、老中、3奉行、大目付らが列席するなか、中山愛親に処分を申し渡した。
定信は知友鷹司輔平の書簡から、今回の尊号宣下推進派の中心人物は中山愛親と知っていた。
尊号御内慮(ごないりょ)一件、取扱い行届かず、并此の度(たび)下向の上、御尋ね共(ども)これ有る処、不束(ふつつか)の御答、并軽卒成る取計らい、その外体談を失し候儀共、不埒(ふらち)に思し召し候間、閉門之を仰せ付けらる。
尊号宣下にあたり、天皇をいさめる立場にありながら、それを怠った中山愛親に閉門(へいもん)を申しつけたのである。閉門とは、「門を閉ぢ、通路これ有るまじき事」で、外出禁止である。
一方、正親町公明に対しては、「逼塞(ひっそく)之を仰せ付け」るとある。逼塞とは、「門をば立置き、昼の内にても、くぐりより目立たざる様通路これ有る可き事」で、白昼の出入り禁止である。
そこで閉門と逼塞の処罰を受けた両卿は、青松寺へ移され、3月下旬警護のもと京都へ帰された。
定信にとっては、武士も公卿も天皇の臣下であり、「王臣隔てなく、其の善悪によりて抑揚賞罰(よくようしょうばつ)これ有り候は」、天下をあずかる将軍、つまり幕府の「御職掌(ごしょくしょう)」(職務)なのである。
幕府は中山、正親町両卿の処罰を朝廷側に告知し、免官に関しては朝廷側で実行することを要求した。これを受けて、中山愛親は議奏(ぎそう)を、正親町公明は伝奏を免ぜられた。
また尊号宣下にかかわった萬里小路政房は、「伝奏御役御免」と、広橋伊光は謹慎を命じられ、そのほか3人の議奏は戒飭(かいちょく)とされた。こうした処罰をもって、6年余りにわたった尊号事件は終息したのである。
一方、大御所問題についても、定信の考えは一貫していた。将軍家斉は実父の一橋治済(はるさだ)に大御所の称号を贈り、西丸に迎えて優遇したかった。しかし大御所は、前将軍の敬称である。従って将軍の座になかった治済に大御所を贈るのは不適当である。
定信は大御所問題においても大御所贈与を認めず、名分論を固守したのであった。
(福島大名誉教授)
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磯崎 康彦
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南湖公園にある定信が建てた茶亭「共楽亭」 |
【2009年2月18日付】
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