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  【 松平定信公伝TOP 】
【 外交と蘭学・アイヌ騒乱(3) 】
 
 和人への不信感高まる

 松本伊豆守の意見書は、幕議の結果、聞き入れられ、蝦夷えぞ地調査は続行されることとなった。再度、調査の命を受けた佐藤玄六郎は、蝦夷地へ引き返し、天明6(1786)年5月に松前に着いた。

 天明6年正月、東蝦夷調査隊の下役最上徳内は、先発隊員として松前を立ち、厚岸(あっけし)に向かった。初夏、アイヌ乙名おとなイコトイの小舟に乗り、クナシリ島に渡り、次いでエトロフ島、ウルップ島にまで至った。

 エトロフ島では、難破して同島にいたイジュヨらのロシア人と会い、ロシア情報を得たのである。山口鉄五郎は徳内より少し遅れ、また青島俊蔵はかなり遅れて松前を出発し、両人もエトロフ島を調査した。一方、西蝦夷調査隊の下役大石逸平は、同年3月、松前を立って宗谷(そうや)に向かった。

 5月カラフトに渡海し、同地の交易や地理を2カ月余り調査したが、食糧不足や進路を阻まれたため、7月宗谷に戻った。その後、宗谷より海路で東北海岸を回り、厚岸に着き、東蝦夷隊と合流し、松前へ帰ったのである。

 蝦夷地調査隊が検分している最中、江戸では大事件が起きた。将軍家治が病に伏せ、天明6年9月病没し、前後して田沼意次も逼塞(ひっそく)を命じられ、8月に老中を免ぜられた。蝦夷地開拓に熱心な松本秀持も、勘定奉行の任を解かれた。そのため蝦夷地開拓は調査途中のまま、頓挫(とんざ)してしまったのである。調査隊は帰還を命じられ、江戸に着くや解雇されるという有様(ありさま)であった。

 山口鉄五郎ら普請(ふしん)役5名は、地理・産物・ロシア情報などを委細に記録し、『蝦夷拾遺(しゅうい)』4巻にまとめたが、蝦夷地調査差し止めとの理由で受理されなかった。

 田沼意次の政策に批判的な松平定信は、天明5(1785)年末、溜間詰(たまりのまづめ)、同7年6月老中首座、同8年3月将軍補佐となった。定信は蝦夷地を火除地(ひよけち)として未開とする考えであったが、蝦夷地を放置できない事件が寛政元(1789)年5月に起きた。クナシリ、メナシのアイヌ騒乱である。

 そもそも蝦夷地を支配した松前氏は、慶長9(1604)年、徳川家康に願い出て、アイヌとの交易独占権を得、幕藩体制下に組み込まれた。

 しかし、松前藩は米穀が取れないところから、他の諸藩主と異なり、賓客(ひんきゃく)としてもてなされた。米穀の取れないことは、家臣にも米の石高給与をできず、その代わりアイヌと交易する商場の交易権を知行として与えた。

 知行主は藩の認可のもと、自らの物資を舶載して現地へ向かい、そこで現地の生産物と交易し、これを商人に売りさばき利潤を得ていた。しかし、こうした商場制度が、江戸中期ごろ、場所請負(うけおい)制度へ替わるのである。これは、知行主が商場(あきない)ばの交易権を商人に代行させ、その利益配分を受け取る制度であった。知行主は場所請負人からの運上金や差荷に関心があっても、アイヌとの直接交渉に関与しなかった。そのためアイヌとの接触や処遇は、商人の独断的な裁量に任された。

 利潤を追求するあまり場所請負人は、畢竟(ひっきょう)、アイヌへの重労働、低賃金、悪待遇、粗悪品の販売へと流れた。その結果、アイヌの和人への不信感は高まっていったのである。

 寛政元年のアイヌ騒乱は、こうした状況下で起きた。騒動となったクナシリの場所請負人は、飛騨屋久兵衛であった。『新北海道史第2巻』によると、クナシリではアイヌを使役して鱒(マス)・鮭(サケ)をとり、しぼって粕かすを製し、油をとらせたが、支給手当は少なく、降雪のころまで働かせた。そのためアイヌは、漁獲して冬季の食料貯蔵をする暇がなく困窮(こんきゅう)したという。

 騒乱の直接原因は、クナシリに赴いた松前藩足軽がオムシャの儀礼を行わず、しかもアイヌ死亡事件の発生や毒殺の流言などによるものであった。5月5日、クナシリのアイヌが蜂起し、22人の和人を殺害した。

 その内訳は『寛政蝦夷乱取調日記』に、「くなしり運上屋にて五人 へとかにて三人 まめきらゑにて貮人 ちふかるへつにて八人 ふるかまふにて四人」とある。騒乱は対岸の標津(しべつ)付近のメナシ各地でもおこった。

 メナシ方面の死者は49人で、同取調日記に「めなしへつにて五人 船にて拾壹人 ちうるい運上屋にて拾人 こたぬかにて五人 くんねへつにて五人 さけむいにて五人 うゑんへつにて八人」とある。両地区で殺害された人数は、合計71人であった。騒乱は、霧多布(きりたっぷ)の飛騨屋久兵衛配下の支配人助右衛門に視聴され、松前藩に報告された。

(福島大名誉教授)

磯崎 康彦

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「アイヌ騒乱」の資料などがあるフランスのブザンソン美術館

【2009年3月11日付】
 

 

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