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戦闘避け平和的に解決
騒乱を知った松前藩は、すぐ新井田孫三郎を筆頭に鎮圧隊を編成し、海路と陸路から現地に向かわせた。鎮圧隊は厚岸(あっけし)で軍を整え、戦陣を張った。
しかしアイヌのなかに松前藩との戦闘を避け、平和的に解決しようとする者もおり、乙名イコトイやツキノエは、蜂起したアイヌらに降伏を説いた。乙名らの努力により、松前藩は交戦することなしに、騒乱を起こしたアイヌを捕え、首謀者を処刑し、かつアイヌ族長らに松前藩に服従することを約束させた。
孫三郎は8月5日、厚岸を出船し、その際、藩主に拝謁(はいえつ)させるため、アイヌの酋長(しゅうちょう)やその眷属(けんぞく)らを伴来させた。
『寛政蝦夷(えぞ)乱取調日記』9月3日の条に「御目見得(おめみえ)蝦夷共不レ謹残相揃候間名前相調」として43人の名前を挙げている。さらに9月23日の条に「東夷地之罷下候節途中場所々より召連候長人共」として44人のアイヌ名を列挙する。
鎮圧隊は9月4日松前に到着、翌日孫三郎は登城し、藩主松前道広に「徒黨の夷共打取候首級三十七、箱にいたし持参」した旨を報告した。アイヌらもつき従ったが、「御目見得罷登候夷とも着類不レ謹宜候に付十徳(じっとく)類持参内にて借爲レ謹着候様申談す」とあるから、アイヌは羽織のような衣服(十徳)をまとい、藩主拝謁に相応(ふさわしい)姿とされた。(『日本庶民生活史料集成』)
このとき藩主道広は蠣崎波響(かきざきはきょう)に命じ、「彼有功者一十二人を図せし」めた。これがマウタラケ、チョウサマ、ツキノエ、ションコ、イコトイ、シモチ、イニンカリ、ノシコサ、ポロヤ、イコリカヤニ、ニシコマケ、チキリアシカイからなる12人のアイヌ肖像画「夷酋列像」である。
ブザンソン市立美術館所蔵の「夷酋列像」はイコリカヤニの一図を欠き、「寛政二庚戌初冬」に完成したと分かる。フランクフルト滞在中、出向いて見学したが、南蘋(なんぴん)派の描法を駆使した濃彩絢爛(けんらん)たる作品である。波響は寛政2(1790)年、藩命にて上洛(じょうらく)の際に「夷酋列像」を持参し、さらにもう一部制作した。「夷酋列像」は京都の公家らに好評で、例の尊号事件の光格天皇も叡覧(えいらん)している。「夷酋列像」のツキノエやノシコサらは皮靴をはき、マウタラケやションコらは蝦夷錦をまとい、イコトイらはロシアの外套(がいとう)をまとう。こうした品が交易品として松前藩に流入していたことがわかろう。前述したアイヌが藩主に御目見得の際、藩から与えた「十徳類」とは、ロシア製外套や蝦夷錦を指すのであろう。
さて松平定信は、アイヌ騒乱を無視することはできなかった。まして騒乱の背後にロシア人がいるとの流言もあったからである。幕府は騒乱究明のため、青島俊蔵を呼び出して長崎俵物御用とし、小人目付笠原五太夫を商人に擬装させて松前へ送りこんだ。蝦夷地に詳しく、アイヌとの通弁もできる最上(もがみ)徳内は、野辺地(のへじ)から加わり、五太夫の下役となった。
一行は寛政元(1789)年夏に松前に着き、騒乱事件を調査し、11月に江戸へ戻り報告書を提出した。寛政2年正月、青島と徳内は呼び出され、隠密でありながら、アイヌ騒乱後の処置に関し、松前藩に助言したとの理由で入牢(じゅろう)されてしまった。このときの処罰の理由が分かりにくい。松平定信は騒乱背後にロシア人介在を考えていたのであろうから、ロシア情報の不十分な報告書に満足できなかったのではなかろうか。
青島は寛政2年8月、遠島を申し付けられたが、獄中で病死し、徳内は吟味の結果、関係なしとされ釈放された。徳内はその後、普請役に昇進し、寛政4年蝦夷地に向かいカラフトまで足を延ばし、北辺の交易状況について調査を続けたのである。
(福島大名誉教授)
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磯崎 康彦
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オランダ船図説=林子平録 |
【2009年3月18日付】
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