◇田中須美子さん(94)《4》善ちゃんとなら大丈夫

 

◆クラロン会長

 田中善六は最愛の夫ですが、恋愛ドラマのような出会いがあったわけではありません。

 田中に初めて会ったのは、福島市の私の自宅。でも私に会いに来たわけではなく、彼は仕事のことで私の父を訪ねて来ました。

 父は税務署員。転勤で1946(昭和21)年春に福島税務署に赴任しました。一方、田中はその年の秋に管財支所の嘱託職員となりました。税務署も管財支所も大蔵省の出先機関で同じ建物に事務所があり、父の職場に出入りしていて顔なじみになったようです。

 「この人は一体何なんだろう」

 田中は遊びに来ると、私の母を「お母さん」と呼んでいました。最初はけげんに思いましたが、いつの間にか誰にでも優しい人柄に引かれ、お付き合いをするようになりました。

 今は恋愛結婚が当たり前の世の中ですが、当時はまだ見合い結婚の方が多く、親が決めた相手と結婚するのが一般的でした。

 田中と出会う前、私には許嫁(いいなずけ)がいました。相手は、私が3歳の時に親同士が結婚の約束をした人です。それを私は18歳で知りました。

 東京に住んでいた私は突然、親に呼び出されて青森県で初めて許嫁に会いました。その2日後、彼は戦地に旅立ちました。出征中、彼の母親が患い、亡くなるまで看病しましたが、彼が復員すると2人で話し合い、婚約を解消しました。彼は社会に出て働きたいという私のわがままを理解してくれました。

 この頃は親が子どもの将来を決める時代。特に女性は親に逆らえませんでした。でも終戦で日本女性は目覚め、自分の道を進む人も多くなりました。私もその一人。婚約解消を親に反対されても聞き入れませんでした。

 田中と出会ったのはその1年後。交際が深まると彼の温かさを知り、私の至らぬ性格を包み込む心の広さに尊敬の念を抱きました。

 そして田中が24歳、私が21歳の時に結婚。田中は公職追放で仕事を失っていました。親からは結婚後の生活を心配されましたが、私は真っすぐに気持ちを伝えました。「善ちゃんと一緒なら大丈夫」