◇田中須美子さん(94)《5》ガキ大将負かし「親分」に

 

◆クラロン会長

 「須美子」という名前は、私の出生地にちなんで付けられました。

 見て想像してもらえば分かりますが、私が生まれたのは須賀川市。この地で両親が出会い、縁を結んで私が生まれました。

 父は宮城県生まれの税務署員で転勤族。須賀川の職場に転勤して、地元生まれの母を見初めたらしいです。私は6人きょうだいの一番上。父は人生の大きな節目を踏まえて命名したようです。でも、明治生まれの両親にどんなロマンスがあったのか聞かなかったことを残念に思っています。

 私が生まれてからも、父の仕事の都合で東北各地を転々としました。今の市町村で言うと、青森県は弘前と五所川原市、秋田県は能代や由利本荘市。福島と山形県にも住みました。父が定年を迎えたのは福島市です。

 転居先のいい思い出もありますが、転校生はいじめの対象。私が12、13歳ごろ、妹がガキ大将の男の子にいじめられました。私はその子を許せず、体力でかなわないながらも、口で言い負かしました。その彼からは「親分」とあだ名を付けられました。正義感が強く、融通が利かない一面も昔からありました。

 米沢市では、九里学園(現米沢女高)に通いました。応接室の掃除当番の時には棚からお菓子を頂戴したりいたずらしたり、多くの友人たちと充実した学校生活を送りました。学校には師範科もあり、卒業する頃には「学校の先生になりたい」という夢を持ちました。

 しかし両親から「女の子は、結婚をして家庭に入るのが一番の幸せ」と反対され、逆に花嫁修業を命じられました。当時、子どもが親の考えに背くことはあり得ません。1941(昭和16)年に女学校を卒業すると仕方なく上京し、皇族の竹田宮家に縁があるお屋敷に住み込んで修業を始めました。

 花嫁修業は当時珍しくなく、東京や千葉の子たちも修業に来ていて一緒に下働きをしながら、裁縫や料理、作法などを習いました。2年ほどの間に戦争が激しくなり、疎開も経験しました。