◇田中須美子さん(94)《6》お国のため何かしたい

 

◆クラロン会長

 「お国のために何かをしたい」

 今の若い人には考えられないでしょうが、戦争のただ中で多感な青春時代を送った私たち世代はみんな、純粋にそう考えていました。

 1943(昭和18)年、戦争が激しくなると、東京で花嫁修業中だった私は、両親が住む青森県五所川原市に呼び戻されました。その後、戦局は風雲急を告げて、父の転勤に伴い引っ越していた秋田県でも爆撃機が飛び交うようになり、戦火に巻き込まれる不安は増していきました。

 私は秋田の転居先で繊維組合に勤めていました。配給品の衣料品などを店に割り当てる担当でした。若い人がみんな出征し、3人ぐらいで仕事をこなしました。

 いつ空襲に遭うか分からないので、防空頭巾をかぶって通勤。もしもの時に家族が離れ離れになることや死別することも覚悟して2合分のいり米を母に持たされました。

 ある時、沖縄の軍需工場で勤労奉仕をする「女子挺身(ていしん)隊」を募集していることを知り、親に内緒で応募しました。でも募集担当の役所に父の知人がいて、応募したことがばれました。「家から出るな」。父にとても怒られて自宅に軟禁状態となってしまいました。

 それで沖縄行きを諦めましたが、代わりに繊維組合の仕事の後、傷痍(しょうい)軍人の病院を手伝いました。夕方5時から夜8時ごろまで、戦地でけがをした人の包帯を取り換えたり、注射をしたりしました。

 45年8月15日、終戦を迎えました。それから74年。沖縄にあの時行っていても後悔しなかったと今でも思います。それほど純粋に国のために私ができることをしたかったのです。
 でも親にしてみれば「なんで自分の娘が志願してまで死にに行かなければならないのか」と思うのは当たり前のことです。

 後に沖縄県を訪れ、少女たちが身を投げた荒崎海岸に行きました。崖の上に立つと涙が流れ、足ががくがくと震えました。そして目の前に広がる真っ青な海を見て、平和の尊さをしみじみ感じました。