◇田中須美子さん(94)《7》リヤカーが2人の原点

 

◆クラロン会長

 私の戦後は夫との二人三脚の歩みです。とても波瀾(はらん)万丈でしたが、夫と苦楽を共にした55年に、苦労と感じたことはありません。

 夫は建設会社を経てガラス会社に勤めました。私は、山形県の親戚が福島市に起こした肌着の縫製会社で経理として働きました。

 夫はガラス会社で手腕が認められ、役員にも就任しました。在任中の1955年には、地元の人に推されて福島市議に当選。市勢伸展のために力を尽くしました。

 2人で会社を始めたのはこの時期です。親戚が会社を手放すことになったからです。でも障害のある社員が3人いました。

 「会社が閉鎖するからといって、この子たちを辞めさせるわけにはいかない」  その少し前から、夫は縫製会社に出資したこともあって会社を引き継ぐ覚悟を決めました。それが56年、クラロンの始まりです。

 起業したといっても、お金も得意先もありません。まず始めたのはお得意さん探し。毎日、リヤカーに肌着を積んで売り歩きました。夫がリヤカーを引き、私が後ろから押して、時には片道約10キロを歩くこともありました。

 営業は得意ではありませんが、人と仲良くなるのは上手。行く先々で相談されたり野菜をもらったり。話が弾むと「肌着を売っているなら買うわ」と言う人が増えていきました。まとまった量を作って売れるようになり、初めて納めたのが中合百貨店。納品の時、夫は物陰から買った人に手を合わせたそうです。その時にはもう「お客さんを大事にする」という考えが出来上がっていました。

 当時の会社は2間しかない借家の自宅。居間を事務所、8畳の座敷を倉庫代わりにしました。座敷に布団を敷いて寝ていると、反物が崩れて下敷きになることも。そんな時には夜中でも2人で笑い転げていました。

 夫に「おまえがいて助かった」とよく言われましたが、どれほど役に立ったかは分かりません。でも「大切にされている」と感じられ、一緒に仕事をできることがうれしく、楽しい日々ばかりでした。