◇田中須美子さん(94)《8》新しい社名が大問題に
◆クラロン会長
「名は体を表す」と言いますが、名前を付けるのは本当に大変なことです。
親戚から夫と2人で経営を引き継いだ肌着の会社は「錦メリヤス」と言いました。経営が軌道に乗り始めると、社名に苦情が付くなどしたため、5周年を前に「クラロンメリヤス」に変えました。
当時、肌着を作るのに使っていたのが、倉敷紡績と鐘淵化学工業の糸。高い品質の証しに倉敷の「クラ」と、鐘淵の製品「カネカロン」の「ロン」を取って名付けました。現社名となったのは1989(平成元)年のことです。
しかしこの新しい社名がもっと大きな問題を引き起こすことになります。
「クラロン」という化学繊維があり、商標登録されていました。製造元のクラレから特許侵害で抗議され、夫は急いで大阪の本社に出向きました。
倉敷紡績の仲介を得て、悪意のない過失だと釈明すると、誠意が通じ賠償金の支払いを免除されました。ただクラレの生地で運動着を作るという条件が付きました。
でもこの条件が、天下のクラレのお墨付きを得て新事業を始める一歩となったのです。
私たちは、約束を果たすために白の運動着を作り、学校に売り始めました。県内はもちろん、宮城や山形にも足を延ばしてがむしゃらに売り込みをかけました。しかし運動用品の業界は学校と業者のつながりが強く、新参者は相手にしてもらえませんでした。
それでも時代が味方をしてくれました。
64(昭和39)年の東京五輪をきっかけに、国内ではスポーツウエアが全盛期に。私たちの運動着も売れ始め、業績がぐんぐん伸びました。クラレも応援してくれるようになり、商標の問題は不問に付されました。
一方で、本業の肌着は大手メーカーのシェアが拡大し、うちのような小さな会社では太刀打ちできない状況が生じていました。
「これからスポーツの時代が来る」
東京五輪を夫とテレビで見て確信しました。運動着の製造は、今も続くクラロンの土台を築いてくれたのです。