【黎明期の群像】白河から福島へ 形変えながら「灯」守る

 
往時の趣を残す現在の白河市本町。白河医術講議所が開設された本陣は通りの左側にあった

 日本で西洋外科学が初めて大規模に実地に応用されたのは、戊辰戦争の戦場であった。多くの死傷者を出した白河口の戦いもその一つで、負傷者は新政府軍の救護所となった白河城下の本陣芳賀源左衛門宅に収容され、西洋医学を身に付けた軍医によって外科手術などの治療を受けた。

 病院の中に開設

 戊辰戦争の終結後、医師の少ないこの地において西洋式病院の設立が望まれ、1871(明治4)年8月10日、大学東校(現東京大医学部)の中助教であった横川正臣が求めに応じ、先述の芳賀宅を使った白河仮病院に院長として赴任した。彼は、開院の翌月には病院内に、西洋医学による医師の養成を目的とした医術講議所を開設。これが、福島県下における本格的近代医学教育機関の始まりである。

 その後、白河仮病院と医術講議所は、人口が多く、病院経営の上で有利な須賀川へ移転した。この須賀川病院に併設された医学所は須賀川医学校となり、優秀な学生を集めて発展した。さらに、同校は福島県庁のある福島町に移転。1882年に福島医学校となり、後には卒業と同時に医師免許が授与される甲種医学校に昇格する。ところが、医学校予算に県の財政支出ができなくなり、87年に福島医学校は廃校となった。

 それから50余年を経たアジア太平洋戦争期の1944(昭和19)年、福島県立女子医学専門学校が設立された。女性医師の養成が期待された背景には、男性医師の出征と無医地区の増加があった。

 だが、同校は開校後わずか1年数カ月で敗戦の日を迎える。占領下の医学教育改革の動向を踏まえ、学校関係者が大学昇格を目指して必死の運動を行い、それが功を奏して、大学への昇格が実現。47年に福島県立医大として再出発した。

 次世代への責任

 その後、付属病院の施設が整備され大学教員も充実し、大学院も併設された。しかし、福島市杉妻町の諸施設の狭さとその老朽化が問題になり、88年、キャンパスは現在の同市光が丘へ移転する。また、看護学の重要性が高まり、大学付属看護学校が発展して看護学部が設置された。さらに本年より、新たに理学療法士、作業療法士、診療放射線技師、臨床検査技師を養成する保健科学部が栄町に創設され、2カ所のキャンパスで医療系3学部を有する大学となった。

 空白期を抱えながらも、150年前の白河医術講議所開設から福島県における近代医学教育の灯は先人から受け継がれてきた。現代は少子超高齢化、東日本大震災と原発事故の被害、新型ウイルス感染症など、模範解答のない課題に対して手探りで進まざるを得ない状況にある。そうした中、福島県立医大は、県民の命を尊ぶ医療人を育成する機関として、受け継いだ灯を持続可能な形で次世代につなぐ責任を負っている。(福島県立医大講師 末永恵子)

【黎明期の群像】白河から福島へ

 白河口の戦い 戊辰戦争でも大きな戦局となった1868(慶応4)年夏の激戦。当初は会津藩や斎藤一が率いる新選組、奥羽越列藩同盟の軍が白河小峰城を占拠し、新政府軍に対して優位に展開したが、その後、戦術の誤りなどから形勢が逆転。板垣退助ら新政府軍が勝利して会津藩を攻撃する要衝を確保し、戊辰戦争の大勢を決したとされる。新政府軍はその後、白河を後方拠点として会津攻めに兵員や物資を供給、前線からは多くの負傷兵が戻されて旅籠(はたご)や寺で治療が行われた。

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 芳賀源左衛門宅 奥州街道に沿ってできた白河宿の本町(現在の白河市本町)で、参勤交代の際に大名が泊まる本陣で、1802(享和2)年には伊能忠敬が宿泊、76(明治9)年には明治天皇が東北視察の際に休憩された。街道の中央に水路が流れる広い道の両側に旅館などが並ぶ街並みにあって、本陣は敷地の間口が約30メートル、奥行き約36メートルと広く、門構えで玄関のある建物は建坪約508平方メートルの記録が残る。明治初期に仮病院を開設するのには数少ない好適物件だったが、77年の大火で焼失。現在はマイタウン白河前のクランクからほど近い跡地に案内板や白河医術講議所跡の標柱が置かれている。

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 白河仮病院 明治維新後に一時置かれた白河県の権知事(ごんちじ)で旧土佐藩士の清岡公張が、医師不足や遅れた医療・衛生を憂い、政府に近代西洋医学の医師派遣を求めて実現させた官立病院。しかし、白河県は財源が乏しいうえに病院開設の3カ月後には二本松県さらに福島県にと組み込まれて消滅した。白河地域も病院を支えるだけの経済力が足りず、経営問題に直面した病院は1872(明治5)年2月、わずか半年にして閉院、須賀川に移転した。

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 白河医術講議所 白河仮病院の院長に招かれた横川正臣が近代西洋医学を志す生徒を募集、1871(明治4)年9月に開所した。横川が所長を務める寮制で、12人が厳しい規則の下で学んだが、席次は身分にかかわらず学業成績で決められた(金子誠三『歴史の風景白河こんじゃく』歴史春秋社)。また仮病院の医師も西洋医術をここで学んだ