【黎明期の群像】後藤新平と須賀川 帰国兵の検疫に貢献

 
日清戦争後の大規模検疫の功績が、新型コロナウイルス感染拡大で改めて注目された後藤新平(後藤新平記念館提供)

 新型コロナウイルス感染症禍の中、後藤新平(1857~1929年)が注目されている。

 日清戦争の終結後、コレラなどの感染症がまん延する戦地から、23万人を超える兵士が船で帰国するという難題への対応が検討された。この、世界に類を見ない大規模な検疫事業の責任者に抜擢(ばってき)されたのが、37歳の後藤であった。彼は、国内3カ所に大規模な検疫所を2カ月で建設。3カ月間で687隻23万余人の検疫を成し遂げ、伝染病感染者の隔離収容を行うことで、日本本土への感染拡大を阻止したのであった。この後藤は、若いころ須賀川医学所(後の須賀川医学校)で医学を学んでいる。

医学を真摯に学ぶ

 彼は、陸中国胆沢郡塩竃村(現岩手県奥州市水沢区)に生まれた。藩校立生館(りゅうせいかん)に入り、胆沢県庁の給仕をしていた際、大参事(副知事)の安場保和(やすばやすかず)にその才能を見いだされ、その勧めに従い、福島県第一洋学校へ入学、さらに1874(明治7)年2月、須賀川病院内の須賀川医学所に入った。新築された須賀川病院の建物(医学所と寄宿舎を併設)は東北一の規模を誇り、「東京以北の魁首(かいしゅ)なり」と評された。医学所では解剖学実習も行われている。

 後藤はここで、近代医学を懸命に学んだ。奥州市立後藤新平記念館が所蔵する西洋医学書の筆写本の細かい書き込みは、その学びを示している。校長の塩谷退蔵(しおのやたいぞう)も、後藤の人物を認め生徒寮の舎長に指名し、学費を免除して逆に月給を支給した。

 その後、愛知県病院三等医として名古屋に行き、翌年医術開業試験に合格。81年には25歳の若さで公立愛知病院長、医学校長に抜擢された。

 さらには内務省衛生局長の長与専斎(ながよせんさい)に見いだされて衛生局に勤務し、衛生制度の充実に尽力した。後藤は内務省在職のまま自費でドイツに留学し、コッホのもとで細菌学を学んで帰国すると、直ちに衛生局長に就任する。しかし、在任中に旧中村藩相馬家のお家騒動に巻き込まれて失脚。一時収監された。

科学的調査を重視

 無罪判決が下されたその直後に、前述した検疫事業の責任者として後藤に白羽の矢が立ち、検疫を成功に導いた功績により衛生局長に返り咲いた。なお、この日清戦争後の防疫対策として検疫所設置を主唱したのは、福島県梁川生まれで後に陸軍軍医総監となる石黒忠悳(いしぐろただのり)であった。大規模検疫事業には、福島ゆかりのこの2人が大きく寄与していたのである。

 以後、後藤は台湾総督府民政長官、南満州鉄道株式会社初代総裁、逓信相、内務相、外務相、東京市長などの要職を歴任し、政治的手腕を発揮した。彼の先見性のある政策や雄大な構想は、科学的調査に基づくものであったとされる。

 果たして後藤新平であったら、新型コロナウイルス感染症への対応をどのように行ったであろうか。(福島県立医大講師 末永恵子)

須賀川病院のあった地域周辺



















 日清戦争後の大規模検疫 日清戦争(1894~95年)では大本営が置かれた広島市で、戦地から帰った労働者が感染源とみられるコレラや赤痢が流行した。陸軍は大量に帰還する兵士が伝染病を持ち込むことに危機感を持ち、臨時の検疫部を設置。事務局長に抜擢(ばってき)された後藤新平が指揮し、広島市似島(にのしま)、下関市彦島、大阪市桜島の3カ所に検疫所を開設した。特に似島はわずか2カ月で建設したにもかかわらず401棟、総建坪2万2660坪(約7万4800平方メートル)と世界最大級で、これを知った先進地ドイツの皇帝が舌を巻いたという。23万人以上を検疫した結果、多くのコレラ感染者が判明、国内流行を水際で抑えた。検疫所職員53人が亡くなっている。

          ◇

 安場保和 熊本藩出身の官僚・政治家で、福島県令(知事)として安積疏水による安積開拓を実現させたことで名高い。少年期は藩政改革を進める横井小楠に師事して頭角を現し、戊辰戦争後は岩倉具視や大久保利通と欧米視察に参加。帰国後、福島県令となり、須賀川病院の公立化と新築も支援した。後藤との出会いはこれより早い1869(明治2)年、胆沢県(岩手県南部)の大参事として赴任した際で、後藤の愛知転出も安場が愛知県令に転じた影響が大きい。若き後藤に安場は次女を嫁がせ、岳父としても相談者となった。

          ◇

 須賀川病院 現在の公立岩瀬病院につらなる施設。150年前に開設された白河仮病院と白河医術講議所が運営難から閉院した後、1872(明治5)年に須賀川町(当時)に移転開設された。当初は宿場の旧本陣藤井栄太郎宅に病院、脇本陣柴原新助宅に入院室を置いたが、73年に釈迦堂川に近い現在の公立岩瀬病院の敷地に新築された。橋本伝右衛門、永田佐吉ら多くの地元有力者が、遅れた衛生・医療の改善のため熱心に病院誘致を働き掛け、新築に当たっては献金と募金活動により当時の金額で2500円を集めた。建坪計352坪(約1160平方メートル)、敷地面積1425坪(約4700平方メートル)は当時として東北一の規模を誇ったという。(『公立岩瀬病院百年史』)

          ◇

 後藤新平の向学心 最初入学した福島県第一洋学校は、福島小学第一校の別科で県内の中学校の先駆けともいえ、後藤ら年長者が英語、数学などを学んだとみられる。須賀川時代の2年半では、医学所で物理、化学、解剖、生理、病理などに接し、毎晩自習室で書を読み机で仮眠するという猛勉強ぶりだった。しかし生活費に困るほど貧しく、食費を節約し、ぼろ着を1週間も着たままの暮らしだったという。それでいて美男子ぶりは評判。年少で寮の舎長になってもうまくまとめ上げたという逸話を残した。

          ◇

 塩谷退蔵 須賀川病院の2代目院長として赴任。すでに地方の医療界では権威だったが、貧しい患者には便宜を図るなどの手厚い運営で臨み、医学校の校長としても後藤ら若き医学生の才能を引き出した。

          ◇

 石黒忠悳 父の任地だった梁川で生まれた。オランダ医学を学び大学東校(後の東大医学部)に就職したが、陸軍に転職し、西南戦争で傷病兵の治療などに当たった。後藤新平記念館によると、後藤との出会いは塩谷退蔵らの紹介による。日清戦争後の大規模検疫を提唱した。