【黎明期の群像】近代看護の発祥 「会津の女性」先駆けに

 
「城内婦女子の活躍の図」(長谷川恵一画、會津藩校日新館提供)。長谷川恵一(1924~95年)は会津若松市出身の画家、元県工業試験場デザイン課長で、時代考証に基づき幕末期を描いた作品などが国内外で高く評価された。この絵は鶴ケ城に撃ち込まれた砲弾の処理など組織的に動き回る女性や子どもの姿を題材にし、左奥に負傷者を看護する様子を描いている

 昨年はフローレンス・ナイチンゲールの生誕200年だったが、西欧における近代看護の発祥はクリミア戦争から帰還したナイチンゲールが1860年に『看護覚え書き』を著し、近代看護の在り方を定義して以降のことだ。それ以前、西欧での看護は主に身内の手によって行われており、雇われて手伝うのは身分が低く教育も受けていない女性たち。与薬や身の回りの世話、時には同衾(どうきん)する者もいた。看護という職業は社会的に成立していなかった。

 歴史変えた活動

 一方、わが国においてはどうであったか。幕末期に英国公使館付医官として来日したウィリアム・ウィリスは1868年、新政府軍の要請を受けて横浜軍陣病院の院長に就いた。これが、わが国最初の公立外科病院とされる。そこで雇用された「介抱女」11人が日本で最初の職業看護婦とする説が唱えられたが、後の研究で否定される。彼女らの職務は看護とは別物だったのだ。

 半年後、横浜軍陣病院が移転のため閉院になると、ウィリスは同僚のシドル医師に後事を託し、東北戦線に軍医として従軍する。彼は従軍中に見聞した話として、日本の女性看護人の役割は西欧の「雇われ看護人」と同様だったと本国の兄に宛てて書き送っている。

 やがてウィリスは落城後の会津に入るが、鶴ケ城内の女性たちについて本国への報告書にこう記している。「包囲攻撃を受けた中で日本婦人の勇敢で精力的な働きについては数々の物語が伝えられている。彼女たちは黒髪を切り落とし、食事の炊き出しや負傷者の看護に忙しく立ち働き、幾夜となく鉄砲を肩にして歩哨の苦労を分担した」と。

 この時に奥女中や籠城した藩士の妻娘500有余人を率いて傷病人の看護や炊き出しに当たらせたのは藩主松平容保(かたもり)の義姉照姫(てるひめ)だ。

 そもそもこの時代、戦傷者の看護は女性の役割ではなかったが、会津軍は本来予備役の白虎隊まで出陣せねばならぬほど男性の手が逼迫(ひっぱく)していた。そこに会津藩支援のため入城したのが元幕府西洋医学所頭取の松本良順(りょうじゅん)以下5人の蘭方医。かくして、近代医学に基づく病院の中で「組織化された女性による集団看護」が成立した。わが国で初めてのことであり「介抱女」とは次元が異なる活動だ。

 ウィリスは東京に帰還した翌69(明治2)年、東京医学校兼病院(東大医学部の前身)の創始者となり「看病婦」の採用を行う。採用条件は40歳以上。これが東大病院看護婦の起源であり、日本における職業看護婦の起源とも言えよう。彼がそれに踏み切った時、脳裏には鶴ケ城内軍陣病院で触れた革新的な看護活動があったのではないか。

 担い手育成支援

 71年、白河仮病院に大学東校(東京医学校兼病院の後身)から横川正臣(まさおみ)が派遣されて院長となり、福島県で最初の看護婦まつ、みきの2人を採用する。横川は看病婦制度を熟知する人物だ。わが国における近代看護の先駆けとなった照姫らの活動はウィリスを通して看病婦制度に結実し、それを先進的に取り入れたのもまた福島県だった。

 さらに、日本初の看護師養成機関「有志共立東京病院」の設立を進言し、チャリティー・パーティーによって資金提供を行ったのは「鹿鳴館の花」と呼ばれた会津出身の大山捨松(すてまつ)であり、日本で2番目の養成機関「同志社病院京都看病婦学校」を創設した新島襄(じょう)の妻であり協力者だったのが新島八重だ。本県は、わが国における近代看護の成立に大きく貢献してきたと言える。(福島県立医大医学部同窓会特任事務局長 岸波靖彦)

【黎明期の群像】近代看護の発祥

 ウィリアム・ウィリス 1837~94年。北アイルランド生まれの英国人医師。英国公使館付医官として来日したのは62(文久2)年で、英国人が薩摩藩の行列を乱して殺傷された生麦事件で被害者を治療、続く薩英戦争でも英国人負傷者を治療した。その後、薩摩藩の西郷隆盛らと太いパイプを築いた。戊辰戦争では鳥羽・伏見の戦いで双方の治療に当たり、新政府軍に従軍した北陸、会津の戦闘でも会津藩や新政府軍の別なく負傷兵を治療し確かな医療技術を示した。また、捕虜を虐殺しないよう主張、敗れた会津藩の傷病者のために食料や医療品の確保を新政府に約束させ、自らも所持金を提供したという。後に鹿児島県に移り、医学校や病院を創設、日本人女性と結婚し公衆衛生の改善や教育分野でも活躍した。

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 照姫(てるひめ) 松平照。1833~84年。会津松平家の親戚筋である上総(千葉県)飯野藩主・保科家の三女として生まれ、10歳で松平家の養女になった。容保(かたもり)の義姉。一度は豊前・中津藩(大分県)奥平家に嫁いだが、離縁して江戸の会津藩邸に戻り、さらに鳥羽・伏見の戦い後に会津藩が江戸から総引き揚げした際に会津に入った。容保の正室はすでになく、籠城戦では照姫が城内の女性を監督したため、奥御殿は統率が取れていたとされる。女性陣は断髪し、黒紋付きに白無垢(しろむく)、たすき掛け、裾を高く掲げた姿に両刀を差して看護活動を繰り広げた。開城後は若松郊外の妙国寺に蟄居(ちっきょ)、翌年に東京・青山の紀州藩邸に預けられ、さらに小石川の保科家に守られて晩年を過ごした。

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 有志共立東京病院 海軍軍医の高木兼寛が英国留学後に医師や実業家ら同志を募って1882(明治15)年に設立、84年には看護婦教育所を開設した。現在の東京慈恵会医大病院。高木が学んだ英国セント・トーマス病院医学校にはナイチンゲール看護婦学校やナイチンゲール病棟があって患者中心の医療が行われ、高木の考え方に影響を与えた。

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 同志社病院京都看病婦学校 キリスト教の教育者である新島襄(じょう)が、米国人宣教医ジョン・ベリー、ナイチンゲール方式の看護法を学んだ米国人宣教師リンダ・リチャーズの協力を得て1887(明治20)年に設立した。