【黎明期の群像】日新館蘭学科と吉村二洲 会津に種痘の大恩人

 
会津若松市河東町に再建された會津藩校日新館。元は鶴ケ城の西隣にあったが、戊辰戦争で焼失し、現在は住宅街の片隅に天文台跡だけが残る

 人類は昔から天然痘という伝染病に悩まされ、たびたび流行を繰り返し多くの犠牲者を出した。会津藩諸学問の歴史を述べた『日新館誌』によれば、1643(寛永20)年から1823(文政6)年までの藩のお抱え医師は164人にも及んだが、蘭学を学ぶ学問所と西洋医学が急務であった。

親子で名前残す

 会津で初めて天然痘の治療に当たったのが吉村二洲(にしゅう)である。種痘の大恩人といわれているが、二洲については詳細に書かれたものがなく、一人の人物として描かれ矛盾するところがある。

 『吉村家年譜』によると、初代吉村二州篤敬(あつたか)(交甫(こうほ))は吉村寛泰(ひろやす)の実弟であると記されている。1931(昭和6)年に発行された『會津墨客録』にも「吉村交甫 医師 蘭学 二州」とある。この篤敬の一子である寛敬(ひろたか)も二州を襲名しているが、『文久分限帳』によれば、二洲の漢字が使われている。紛らわしいのでこれ以後、初代吉村二州篤敬を吉村交甫と呼び、二代目吉村二洲寛敬を吉村二洲と呼ぶ。

 吉村寛泰は約20年の歳月をかけ『日新館誌』30巻を完成させ、さらに1799(寛政11)年には日新館医学寮の責任者(都講)に抜擢(ばってき)された人物である。寛泰は、弟の交甫を1795(寛政7)年から99年まで医学修業のために江戸に遊学させ、また交甫の子で自身の甥(おい)に当たる二洲に西洋医学を勉強させるために、1845(弘化2)年に長崎へ遊学させた。交甫・二洲親子の遊学経費は寛泰の自費であったといわれるが、寛泰は44年に亡くなっていることから、二洲の経費は吉村家で面倒を見ていたと考えられる。

 『会津藩教育考』によれば、会津で初めて西洋医学を学んだのが横山周仙(しゅうせん)で、1804~17年(文化年間)に自費で長崎に行き蘭方を学んだことが、その後の会津藩で西洋医学を奨励する機運になった。

 後に江戸三家老の一人と称された横山主税(ちから)常徳(つねのり)は御側医の加賀山潜龍(せんりゅう)(翼)に対し、これからの医療は東洋医学と西洋医学を修得することが「真の医家」だと教え、潜龍を1857(安政4)年、藩命で江戸に遊学させ、幕府の医官である伊東玄朴(げんぼく)、織田研斎(けんさい)らについて西洋医学を学ばせる。藩でも日新館は本道(東洋医学)が中心であったが、横山主税の提唱を受け、国元と江戸藩邸において西洋医学の奨励につながった。

 また、横山主税が加賀山潜龍に宛てた消息の文面には、医師たちによる遊学資金の方策が述べられている。潜龍は佐藤雄庵(おあん)と共に実現するため奔走、1836(天保7)年に藩内の医師たちから遊学資金を徴収積み立てして遊学の道を開いた。

最新医療を普及

 遊学に出た二洲は、長崎で西洋医学を学んでいる最中の1848(嘉永元)年に来日したオットー・モーニッケから、西洋医学と牛痘種痘の治療に関して直接指導を受けた。帰国は定かでないが、52年の『若松緑高名五幅対』蘭学の欄に、中央に大文字で吉村二洲、左右は小文字で斎藤玄菴(げんあん)、吉村交甫、森川二英(にえい)、村上元亨(げんこう)の名があり、これを見ても二洲は当時の蘭学者として第一に挙げられている。

 57年の疱瘡(ほうそう)流行に際して二洲、馬島瑞園(ずいえん)、宇南山宙斉(うなやまちゅうさい)らで若松城下ならびに南会津郡下において種痘を行う。

 59年6月、横山主税の提言により、江戸芝の会津藩邸に蘭学館が建てられ、二洲を助教としたが、万全な体制ではないため、加賀山潜龍に藩命が下り、伊東玄朴、織田研斎、それに萩の山根敬造(けいぞう)らに協力依頼し再び教えを仰いだ。

 蘭学館がようやく軌道に乗る中、同年9月に会津でコロリ病が流行すると、二洲は藩命で会津に呼び戻され、日新館医学寮蘭学科が創設されると加賀山潜龍と二洲は教授となった。特に二洲は西洋医学と蘭学の教授として指導に当たり、会津藩で西洋医学に関する教育を最初に取り組んだ人物である。また城下河原町に洋学伝習のための舎密所(せいみしょ)(化学)が設けられ、江戸から二洲に同伴した山根敬造が教授となった。

 先ほどの『若松緑高名五幅対』には大医・医家・流行医の欄に5人ずつ医師の名前があるが、最新医療である西洋医学の普及に尽力した二洲は蘭学の欄に名前があり、蘭語の教育にも当たっていた。

 53(嘉永6)年、二洲は、会津の医師たちに種痘治療に関して講義を行い、この時の内容の一部が、門人の森川春斉(しゅんさい)と佐藤祐益(すけやす)が書き記した口授『牛丹種痘児保護法』八項目として現存している。

 68(明治元)年、二洲は会津高田町雀林村法用寺に病院を開き治療に当たり、70年には若松に戻り下四ノ町で開業し、会津一円で天然痘が流行すると先頭に立って治療に当たった。77年の「若松町内種痘医」の中に二洲の名はあるが、86年の「若松医師会名簿」からは消え消息不明となる。(会津若松市文化財保護審議会委員 渡辺明)

          ◇

 天然痘 痘瘡(とうそう)、疱瘡(ほうそう)。感染力が非常に強いウイルスによる致死率の高い疫病で、治っても顔などに痕が残り、紀元前から世界的に恐れられた。新大陸(北米、中南米)では大航海時代以降、免疫のない先住民族の衰亡に大きく影響したとされる。日本でも流行がたびたびあり終戦直後まで続いて多くの死者を出したが、種痘が奏功し、国立感染症研究所によると1956(昭和31)年以降は発生がない。世界保健機関(WHO)は世界天然痘根絶計画を立て戦略的な種痘を展開、1980年には根絶を宣言した。ウイルスはその後の発生に備え米国などに厳重保管されている。

          ◇

 オットー・モーニッケ 1814~87年。オランダ人医師。オランダの軍医としてジャワに勤務していた1848年、長崎・出島商館医として来日し、聴診器を日本に紹介した。この時に持参した牛痘は効果をみなかったが、改めてバタビア(現ジャカルタ)から取り寄せて種痘に成功した。当初は種痘により角が生えるなどのデマが流布されたが、それでも国内の蘭方医たちにより急速に全国各地に広まった。長崎大付属図書館資料によると、モーニッケは後に著書で、日本人の理解力と外来文化を取り込む能力があり、他の人のために自己を犠牲にできるなどと母国に紹介した。

          ◇

 コロリ病 人がころりと倒れてしまうような原因不明の疫病を民衆は恐れたが、コレラが1822(文政5)年に日本で流行し、オランダ人から病名が伝わると、コレラを指すようになったとされる。コレラ菌を原因とする感染力の強い疫病で、日本には大陸から入ったとされるが、江戸末期から明治にかけてたびたび大流行した。特に幕末安政年間の江戸や東北での大流行は開国との関係が指摘されることになり、攘夷(じょうい)運動を活発化させた。

          ◇

赤べこ、天然痘のお守り?

赤べこ

 会津の郷土玩具である赤べこは、疫病退散や魔除(よ)けの願いをかなえるとして新型コロナウイルス感染拡大の中で注目され、丑(うし)年の今年は販売も好調だが、もとは会津でたびたび流行した天然痘のお守りだったという説がある。

 赤色は古来、病魔を払う意味があるとされ、黒い斑点は痘瘡(とうそう)の痕を示しているという。子どもが感染した場合に亡くなることが多かった昔、牛の玩具に身代わりを願った―と伝わる。

 由来については他にも、柳津町の福満虚空蔵菩薩(ぼさつ)円蔵寺を建造する際に、どこからともなく現れた赤い牛が大量の木材を運んで人々を助けたからという説、安土桃山時代に蒲生氏郷が会津に移った際に職人を呼び寄せ民芸品として作らせたという説もある。いずれも力及ばぬ民衆に優しく寄り添う牛の姿が思い浮かぶ。