【黎明期の群像】西洋医学の求道者・古川春英 命の限り、学び続けた

 
大阪市中央区北浜に現存する適塾。国内に唯一残る蘭学塾の遺構として国史跡・重要文化財に指定され、内部は観覧できる

 古川春英(しゅんえい)、幼名は留吉。1831(天保2)年1月(諸説あり)に代田組駒板村(現会津若松市河東町)の百姓、古川長蔵の7人きょうだいの末っ子として生まれた。駒板村はかつて足利氏の郎党たちが住みついたといわれる村で、農業の傍ら学問を好む者も多く、春英も幼い頃から、家の手伝いの合間に読書にふける向学心旺盛で聡明(そうめい)な子どもだったという。

 なりふり構わず

 この時代は災害が多く、西欧列強が開国を迫り、世の中が大きく変革しようとしていた。そんな時代をどう生きていくか、彼が子どもなりに周りの状況から考えて得た結論が、会津一番の優れた、人々の助けともなれる医者になることだった。

 13歳ごろ、村を出て、若松の町医山内春瓏(しゅんろう)の住み込みの弟子となり、初歩的な医術を身に付けた。しかし、物足りなさを感じていた時、米沢に東北一の外科医高橋玄勝(げんしょう)がいることを知る。即実行型の彼は、桧原峠(北塩原村)を越えその門をたたいた。息子源次郎の書いた「古川家の家訓」によると、春英は追い払われたたかれ、雑言を言われても「弟子にしてほしい」と懇願する。その覚悟の強さをみとった玄勝は、弟子として受け入れた。

 それからは、家事などの勤めの傍ら寝食を惜しんで修業に励んでいたが、蘭医の卓越した新しい医術が大坂、長崎の方で盛んになっていることを耳にする。向学心にあふれる彼は、矢も盾もたまらず着のみ着のまま大坂に走り、緒方洪庵(こうあん)の門をたたき、大坂の適塾で蘭学とその医術の魅力に引き込まれ没頭していく。

 安政年間に入ると会津藩でも山本覚馬(かくま)らが蘭学の必要性を説き、1857(安政4)年、御用屋敷の北端を仮教場に、野村監物(けんもつ)、山本、南摩綱紀(つなのり)を教授として砲術と蘭学の初歩の学習が始まる。それを知った春英は、今まで学んだ蘭学と医術を伝授すべく会津に戻ってくるが、「無断で藩外へ出た犯罪者である」と受け入れてもらえない。しかし、春英の力を認めた監物が、御側医師吉村二洲(にしゅう)弟子分限として重役たちに働き掛けてくれ、許されて教師の職を得た。

 ところが旧弊な藩医たちは春英を「蘭医学は野蛮な国の卑しい医学であるから、そんな者と一緒に仕事をしてはいけない」と疎んじ認めない。その上、監物がその役を離れることになり、春英自身もさらなる蘭医修業の必要性を強く感じたのか、せっかく得た地位を投げ捨て、大坂適塾を目指し再度入塾した。

 彼はここで、オランダの軍医ポンぺと松本良順(りょうじゅん)が長崎に養生所(病院)を設立、臨床的かつ実学的な講義をしていることを知り、またもや飛び立つ思いで長崎へ走り、良順の塾生として長崎養生所(精得館)で水を得た魚の如(ごと)く学び始めた。

 熱意あふれる指導者ポンぺや、その後継者でやはりオランダ軍医のボードインの元で、医学のほかに物理、化学まで幅広く学習に取り組む春英。塾生からは明治の医学界を担った優秀な人材が多数育っているが、春英も持ち前の「負けず魂」を発揮して当時最先端の鉄砲傷の治療法をはじめとする外科や疱瘡(ほうそう)に関する知識と技術を身に付け、秀でた腕前になっていく。

 良順も春英の手腕をよく知っており、(後日)とある席で「会津藩に外科の良医はいないのか」と聞かれ、「会津には古川春英という優れた蘭医がいるはずです。彼は長崎にて私の元でオランダ医学を学んだ者であり、知識も技術も超一流の男です。今、会津に戻っていないのですか」と答えたという逸話が残されている。

 良順が認めた腕

 その後、会津藩上層部は禁門の変などの戦いを通して、鉄砲で撃たれた傷の治療は蘭医が優れていることを知り、覚馬や二洲を使者として春英を呼び寄せた。春英は元治年間には京都常詰医師雇勤(じょうづめいしやといつとめ)となり、5人扶持を給せられた。

 1867(慶応3)年、会津藩は今後の負傷者に対応するため、日新館に軍陣病院を開設、医師60余人を所属させる。春英の名は御医師の名簿の末の方に見られる。

 翌年、新政府軍が会津に近づくにつれて戦傷者は増加の一途をたどった。

 そんな6月のある日、かつての師、松本良順が数人の弟子と共に勢至堂峠(須賀川市)を越えてやって来た。日本一の外科医が来てくれたと松平容保(かたもり)はじめ会津藩挙げて大歓迎し、良順はさっそく日新館で治療を始める。また、負傷者に体力をつける必要性を説き、容保の許可を得て牛乳や牛肉を与えている。その上、重傷を負い只見まで逃れてきた長岡藩家老、河井継之助の診察に行くなど大活躍したが、籠城前日の8月21日早朝、容保から刀と掛け軸を賜り、米沢へと桧原峠を越えて行った。良順は「古川春英は蘭医学に優秀なれば、全て彼に託されよ」と言い残して行った。

 その後は、春英が中心になって治療を続けた。城明け渡し後は、島村(現会津若松市河東町)にできた治療所の長として活躍する一方、優れた若者(医師)を育成しようと、自ら書を探し筆写して与えるなど寸暇を惜しんで力を注いだという。

 また、1869(明治2)年10月には、容保の嫡男として6月に誕生した容大(かたはる)へ、2月に生まれた容保の長女厚姫(あつひめ)には11月に、種痘を実施し成功させ、今までの手腕を認められて御側医の責任者である御側医頭取に列せられ、容大が斗南に移る際には、御側医師として随行している。

 この後、若松に戻ってみると街ではチフスが大流行しており、その治療に当たるうち自らも感染、帰らぬ人となった。恩師ボードインが東京の医学校で講義していることを知り、さらに新技術を学ぶべく準備中の訃報だった。1870(明治3)年11月17日没。享年39。

 これから持てる力を十分に発揮し、桧(ひのき)舞台に立って近代医学の発展に貢献できたであろうに...。常によりよいものを求め、苦労や困難をものともせず、いちずに熱意を持ち、努力し続けた彼の姿を、郷土の誇りとして語り継いでいきたい。(会津史学会理事 佐藤紀子)

日新館天文台跡

 土方歳三の銃創も治療

 戊辰戦争の中、歴史に名を刻んだ人々が交錯した会津。若き名医古川春英もこれら多くの人と関わることになる。その一人が新選組副長、土方歳三だ。

 土方は宇都宮城の攻防で銃撃され足を負傷。若松では老舗旅館の清水屋に泊まり、春英らの治療を受けた。その後、箱館戦争にいたる土方の戦いぶりをみれば、春英の銃創処理の確かさが想像できる。

 清水屋は木造3階建て、旅籠(はたご)が立ち並ぶ当時の七日町通りでもひときわ格式の高い旅館で、多くの名士が宿にしたという。昭和元年に解体。現在は銀行脇の石柱と案内板が往時の様子を伝えている。

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 緒方洪庵 1810~63年。江戸時代後期の医師・蘭学者。備中(現岡山県)で生まれ10代で大坂に移り、蘭学者に付いて西洋医学を学んだ。江戸、長崎で遊学し38(天保9)年に大坂で開業、併せて蘭学塾「適塾」を開いた。牛痘種痘を広めた功績から全国に名が知られ、晩年には幕府から奥医師・西洋医学所頭取に任命された。コレラ流行時にはマニュアル書を緊急出版して治療指針を広めるなど多くの業績を残した。

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 適塾 緒方洪庵が1838年に大坂に開いた。後世の大阪大につらなる。塾名は洪庵が「適々斎」と号したことに由来する。西洋医学の研究、種痘、コレラ治療などを展開。塾生の多くは郷里で開業医として地域医療の水準を高めたほか、福沢諭吉、大村益次郎ら幕末・明治に活躍する多彩な人材を輩出した。

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 ポンペ 1829~1908年。オランダの軍医。幕府が初めて招いた外国人医学教官として長崎海軍伝習所で指導。さらに初の洋式病院、長崎養生所を設立し、門下から松本良順ら幕末・明治の医学界を背負った人材が育った。

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 ボードイン 1822~85年。オランダ軍医で、長崎養生所にポンぺの後任として雇われた。幕府が倒れた後は適塾の流れをくむ大坂仮病院で診療と講義に当たり、1870(明治3)年には一時、大学東校(現東大医学部)でも教鞭をとった。