【黎明期の群像】渡部思斎とその子、鼎 研幾堂の志、海越えて

 
かつて研幾堂があった野沢宿の通り。越後街道の要衝にあって大いににぎわった街は今、地域おこしの挑戦で注目を集める

 現在の西会津町野沢は江戸時代、越後街道の宿場町として栄えた。その経済的繁栄は豊かな教育と文化を育み、多くの私塾が生まれた。その中の一つに渡部思斎(しさい)が開設し、明治黎明(れいめい)期の日本で活躍する人物を多く輩出した「研幾堂(けんきどう)」がある。

人生懸けて教育

 思斎は8歳の時に父を亡くし、目の不自由な母親の世話をしながら勉学に励み、会津藩校日新館の医学寮で学を修めた。その後、野沢で医院を開業し、また1866(慶応2)年には私塾研幾堂も設けて近隣から子弟を集め、法政、経済、文学、医学の4科を指導した。その評判を聞いた会津藩は翌67年、医学寮学監に思斎を招聘(しょうへい)しようとしたが、思斎はこれを固辞、郷土の子弟の教育に尽力した。

 1873(明治6)年、野沢小学校が創設されると、初代校長に就任し、自ら教鞭(きょうべん)をとったほか、夜は自宅を開放して俳諧、和歌、謡曲なども教えた。79年には県民会議議員となり、会津三方道路開鑿(かいさく)に抗する農民を指導するなど、自由民権の活動にも取り組んだ。89年、県議候補者の応援演説中に卒中で倒れ、そのまま亡くなった。

 思斎は23年間にわたって教育の振興にその生涯を捧(ささ)げた。告別式の弔辞によると、その子弟の数は400人以上に及ぶという。その中にはアダム・スミスの『富国論』を翻訳した石川暎作(えいさく)、山本覚馬(かくま)の「管見」を口述筆記した野沢鶏一(けいいち)、自由民権運動家の山口千代作、小島忠八らがいる。

野口英世を治療

 また、思斎の子、渡部鼎(かなえ)も父に師事し、研幾堂で学んだ人物である。鼎は1872(明治5)年、横浜の高島学校で英学と理化学を学び、74年には東京大南校に入学、77年に陸軍医となった。

 陸軍医時代には、脚気(かっけ)の原因についての新学説発表やコレラ新治療法の発見、インフルエンザ流行の予測など医学の研究をしたほか、兵士の食料事情の向上を提唱し、体格を測定して平均身長と平均体重を公表した。平均身長の公表はわが国初という。

 衛生面の改善にも精力的に取り組んだ。特に力を注いだのは「婦人束髪運動」である。当時女性の髪形の主流は鬢(びん)付け油で固めた日本髪であり、それが不衛生、不経済だとして、85年、研幾堂同門の石川暎作と「婦人束髪会」を結成、簡素で自由な西洋式の束髪を推奨する運動を展開した。このことが現代の理容の礎を築き、女性の健康と地位向上に大きな影響を与えた。

 そのほか、聴打診器や担架など医療道具の改良も行っている。

 86年、医学研究のため米国に渡り、カリフォルニア大医学部に入学、外科、内科など13科を修めてドクトルの学位を取得した。88年には開業医師の免状を受けて、現在のサンフランシスコパウエル通り1010番地に医院を開く。日本人が欧米で医院を開業するのは、これが初めてのことである。

 90年に帰国、異国の地にあって死に目にも会えなかった亡き父思斎への思いや周りの人からの勧めもあり、この年の6月、現在の会津若松市中町に会陽(かいよう)医院を開業すると、「渡部ドクトル」の名のもと、会津全域から患者が集まるようになった。92年、この医院で野口清作(英世)少年が、幼少期に負った左手の火傷(やけど)の手術を受けることととなる。翌93年、このことをきっかけに清作は医師の道を志し、会陽医院の書生となって医学と外国語を学んだ。

 1906(明治39)年、鼎は上京し、日本初のラジウム治療病院を開設するが、持病の胃病の保養を兼ねて17(大正6)年に帰郷、現在の会津若松市・桂林寺通り付近に再度開業することとなる。

 鼎は、海外での研鑽(けんさん)を積んで当時では最高の技術と知識を持つ医師となり、医療や衛生などの分野に大きな影響を与えた人物であった。(西会津町教育委員会生涯学習課 浜田千俊)

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 会津三方道路 県令三島通庸(みちつね)が1882(明治15)年に就任すると会津若松から南は日光・宇都宮方面、西は越後(新潟)方面、北は米沢方面へ延びる旧街道を改良整備したり、新しいルートを引いたりする一大事業を打ち出した。住民に対して人夫を出すか負担金を支払うかを迫ったため、河野広中が議長を務める県会は激しく反発し、自由民権運動に火がつく。三島は自由党員や農民を弾圧し、河野らが逮捕される福島事件につながった。道路は現在の国道49号、国道121号のもととなった。

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 石川暎作 1858~86年。西会津町野沢の出身で、横浜に出て英語を、慶應義塾に入って洋学などを学び、大蔵省に入省。その後、経済雑誌の編集に当たった。翻訳したアダム・スミスの経済学書の名前を石川は「富国論」とした一方、その後多くの翻訳が出され、現在は「国富論」が一般的に使われている。

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 会陽医院 第六十国立銀行若松支店として建てられた蔵造りの2階建てで、支店閉店後に鼎が医院を開業した。建物は現在も野口英世青春通りに面して残る。診察室や手術室、待合室があった1階は今、喫茶店「會津壱番館」に、書生部屋として使われた2階は資料館「野口英世青春館」として英世ゆかりの品などが展示されている。元日のみ休館で、野口英世青春館の入館料は200円(小中学生100円)。電話0242・27・3750。