【黎明期の群像】初の子宮外妊娠手術報告 道なき道を切り開く

 
鎌田昌琢の肖像画(鎌田道子氏提供)

 受精卵が子宮以外の場所に着床してしまう子宮外妊娠。全妊娠数の約1%が発症するといわれ、発見が遅れると妊婦の命にかかわる危険性のある病気である。しかし、現在は外科手術による治療法が確立されているため、早期に発見されれば大事に至ることはない。

 詳しく経緯記録

 しかし、江戸時代の漢方医学においては、治療法どころか子宮外妊娠の概念すらなかった。したがって、当時この病魔に侵された妊婦の悲惨は、想像を絶するものがあった。

 こうした中、子宮外妊娠治療への道なき道を手探りで切り開いたのが、磐城国相馬藩中村出身の鎌田(かまだ)昌琢(しょうたく)(1825~80年)である。鎌田忠人『鎌田昌琢・富士子の生涯』によれば、昌琢は、13歳にして相馬藩の御典医に学んだが飽き足らず、会津や陸前柴田の医師に師事したほか、江戸、南紀(和歌山)、長崎に遊学し、広く諸家の門を叩(たた)いて医学を修めたとされる。紆余(うよ)曲折を経て中村に戻り、1853(嘉永6)年には相馬藩の藩医に抜擢(ばってき)された。

 翌54年、昌琢は子宮外妊娠の女性に手術を行い、その所見『宮外妊娠治験并記』を刊本にして公表した。症状・診断・治療の詳細が分かる貴重な記録である。それによると、昌琢は、腹痛、嘔吐(おうと)、腹部の膨張などにより衰弱しきった状態にある女性の治療を乞われた。痛みを訴える彼女の腹部は腫れ、鍼(はり)を刺すと膿汁(のうじゅう)が出て、患部には骨を含むとみられる塊があった。彼は、西洋医学書に記載されている子宮外妊娠と診断した。一刻も早く母体から胎児を取り除かなければ、妊婦が死亡してしまう。

 だが、当時の西洋医学でも治療法が確立していなかった。しかし、手術をしなければ座して死を待つのみである。

 一方で、衰弱した身体が手術に耐えうるか懸念された。彼は、思い切って期待される手術の効果とともに危険性について家族や村の長に説明した。そして許可を得て、開腹手術を敢行した。20センチ以上の死胎児を取り出す手術はみごと成功。やがて女性は健康を回復し、後年再び妊娠し、60代まで生きている。

 この子宮外妊娠の治療の詳しい経緯を記した報告書は、わが国で最初のものである。なお、昌琢以前に子宮外妊娠に対して外科手術をしたという事例は存在するものの、それらはほとんどが伝聞記事であり、具体性に乏しい。

 広く学んだ成果

 では、彼はなぜこうした大胆な外科手術を円滑に遂行できたのだろうか。おそらく、医学修業のために諸国をめぐり、最新の医学知識と技術を身に付けていたためであろう。彼が師事した陸前柴田の志賀氏は、麻酔下の乳がん手術で有名な華岡青洲(せいしゅう)の高弟で、外科手術に優れ、その技法を昌琢にも教えていた。加えて、昌琢は青洲ゆかりの南紀や蘭学の盛んな長崎を訪れて、実地に先進医学を修めた。こうした研鑽(けんさん)が、のちの偉業を生んだと考えられる。

 鎌田昌琢の資料をご提供くださった南東北病院麻酔科の長谷川真貴子氏に深謝申し上げる。(福島県立医大講師 末永恵子)

相馬神社に伝わる幟 激動の時代、鉄舟と共に

鎌田昌琢が寄進した幟

 相馬中村城跡(相馬市)に立つ相馬神社に、鎌田昌琢が寄進した大きな幟(のぼり)が残る。立てれば高さ約14.5メートル、幅1.8メートル。市重要有形文化財に指定された幟に「相馬神社」と大書したのは旧幕臣の山岡鉄舟(てっしゅう)であり、この2人の関係から昌琢の波瀾(はらん)万丈の生涯が見えてくる。

 鉄舟は徳川慶喜から、攻め寄る新政府軍の西郷隆盛へ使者になるよう命じられ、西郷との会談で江戸無血開城への道筋をつけたことで知られる。勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟(さんしゅう)」と称された幕臣だ。その鉄舟が剣豪として歴史の表舞台に登場するのは、尊王攘夷(じょうい)の機運が高まる中で、幕府が清河八郎の建議を受ける形で浪士を募り組織した浪士組の取締役に就いたとき。山岡鉄太郎を名乗っていた鉄舟らに率いられ、浪士組は上洛(じょうらく)する14代将軍家茂(いえもち)の警護を名目に京都へ派遣された。1863(文久3)年のことだ。

 この浪士組に昌琢が参加していた。昌琢の子孫たちがルーツをたどった調査の中でも鎌田忠人氏(故人)が1993(平成5)年にまとめた著書『鎌田昌琢・富士子の生涯』には、昌琢が参加したのは「新徴組」とある。ただし、当初組織されたのは浪士組で、隊が分裂していく中で京都に残ったのが新選組(会津藩預かり)、江戸に戻って幕府により再編され市中の治安に当たったのが新徴組(庄内藩預かり)と区別されることが多いため、ここでは、昌琢が入隊したのは浪士組で江戸に戻って新徴組に所属したと表記する。

 同書によると、昌琢はすでに相馬藩の御伽医にまで昇格し、城下侍同格の扱いで、当時は江戸で医師として腕を磨いていたが、幕府の募集があったため相馬藩在籍のまま隊員に応じた。新徴組の中では医局長に抜擢(ばってき)されており、軍医の役割を担ったらしい。

 230人を超えた当初の浪士組には近藤勇、土方歳三らのちの新選組幹部らの名前もあり、昌琢は医師でありつつ志士たちと交わり、激動の時代の先頭を走っていた。子宮外妊娠手術から9年の歳月がたっていた。

 浪士組編成のころから上司と部下の関係にあった鉄舟と昌琢。昌琢は相馬に戻った晩年、相馬氏の始祖をまつる相馬神社の創建を支援し、鉄舟の揮ごうが神社創立年の1879(明治12)年、翌80年の社殿落成年に届いており、書家としても名高かった鉄舟に昌琢が依頼したと同書はみている。下部に2人の名を記した幟は、あまりの大きさのため支柱とする木がなく、相馬神社によると創建百年祭に掲揚されて以降、はためいた記録はない。今は静かに、名医の人生に意外な一場面があったことを伝え続けている。

 地域医療のため尽くす

 初め相馬での開業が実現できず、川俣で開業した鎌田昌琢だったが、28歳で相馬藩医に認められてからは相馬と深く関わり続けた。

 『鎌田昌琢・富士子の生涯』によると、1857(安政4)年の猛暑では「神功丹」という薬を調合し、藩内で薬を入手しにくい地域の人々にも解熱剤として施し効果をあげた。62(文久2)年に麻疹やコレラが流行、多くの死者が出た際には冊子「邪病新書」を著し、コレラの解説と治療法、薬の製法などを医師らに広めたという。

 廃藩置県があった71(明治4)年に磐前(いわさき)県令が西洋式病院建設を計画した折には、自宅と土地、建具に金銭まで付けて寄付し「中村病院」開院を後押しした。この病院は福島県管轄になったが、十分な補助がなく、住民も西洋医学になじまずに89年廃院。しかし昌琢の私利を求めない逸話はその人間性を物語っている。