【黎明期の群像】二本松藩西洋医学の先駆け 修学成果、故郷に還元

 
二本松藩の西洋医学教育の拠点となった藩校敬学館は霞ケ城の目の前(写真手前)にあった(ドローン撮影・石井裕貴)

 二本松藩は奥州諸藩の中で、仙台、会津、相馬などとともに、西洋医学の盛んな藩のひとつに挙げられている。

乳癌手術に成功

 その先駆けとして活躍したのが、小此木氏である。初代の屋之は長崎に遊学して吉雄耕牛(よしおこうぎゅう)に外科を学び、側医として藩主丹羽氏に仕え、帰藩の後は松岡町で開業した。次の2代貞安は父屋之の跡を継ぎ、1789(寛政元)年11月に側医として召し抱えられ、100石を給されている。

 3代目が天然(てんねん)で、1785(天明5)年に江沼氏の子として生まれ、小此木家に婿養子に入り跡を継いだ。外科を学ぶため長崎に赴き、前野良沢らと同様に長崎通詞の吉雄忠次郎、権之助について蘭語や医学を学んだ後、シーボルトの門下に入った。ここで従来の本邦医学界には見られなかった臨床実験と解剖学を学び、シーボルトの指導のもと、乳癌(がん)の手術を成功させた。

 また、長崎の通史本木正栄(しょうえい)の知遇を得て、当時新たに輸入された西洋医学の内科、外科の書を攻究し、臨床手術や解剖学を学んで帰藩した。

 帰藩後は二本松藩の許しを得て、福島県で初となる刑死者の解剖を行い、この体験をもとに『骨譜』を著した。また、藩校敬学館にて医学を教授し、これが福島県における藩校西洋医学教育の先駆けとなった。天然が敬学館医学寮に寄付した人体骨格標本は、その精密さをもって人々を驚かせたという。

 1824(文政7)年8月15日に安達太良山系の鉄山が崩壊し、岳温泉の湯小屋一帯が埋没した際は、救護のため門下生を引き連れ現場に急行した。天然はその冷静な判断で応急処置を行い、多くの人々の命を救った。

 天然が1840(天保11)年に没すると、その子間雅(かんが)が跡を継いだ。天保年間に江戸に遊学し、坪井信道について7年間学び、帰藩後は父・天然の跡を継いで多くの門人を養成した。1853(嘉永6)年に二本松藩領内において初めて種痘を実施し、成果を上げ、また外科手術に至っては家伝の妙を極め、庖丁(ほうてい)が牛を解くように熟練した見事な腕前だと評された。

庶民のため尽力

 小此木氏の他には、元は長崎のオランダ訳官であったといわれる初代国任から続く蘭方医の家系・劉(りゅう)氏が挙げられる。殊に3代目の気海は長崎でシーボルトに学び、父である2代邦英の跡を継ぎ、評判の名医として各地から治療に訪れる者が引きも切らなかったといわれる。

 また、小此木天然の高弟として活躍した宇田玄微は、夜中に阿武隈川の供中河原で刑死人を解剖し、人体の構造および生理を弟子たちに教授するほど研究熱心であり、庶民のために医療と保健に尽くした名医としても知られた。その子友信は小此木間雅に学び、戊辰戦争では二本松藩兵の救護に活躍した。戊辰戦争後は敬学館教授となり、さらに須賀川医学校医官として、後進の指導に尽力した。

 他にも代々丹羽氏に仕えた藩医の5代目で、蚕当計(寒暖計)のもととなる体温計を東北地方に初めて移入した稲沢宗庵(格與)や電気治療機を導入した服部恭安、高野長英と親交を持つ長沢大中など、二本松藩ゆかりの多くの人物が江戸や長崎において修学し、西洋医学者として活躍した。(二本松市教委文化課文化振興係主事 箭内未知)

小此木氏の功績伝える

 小此木氏をはじめ二本松ゆかりの医師の業績に詳しい郷土史家、小島喜一氏によると、小此木氏は越中(現富山県)に祖を持ち、屋之から間雅まで4代にわたって二本松のために尽力した。天然の碑や墓は心安寺に整備され、心安寺が明治期に大隣寺に合併された後も境内の林の中に残る。間雅の顕彰碑は大隣寺にある。大隣寺は二本松藩主丹羽氏の菩提寺(ぼだいじ)であり、歴代藩主の墓や二本松少年隊の供養塔、戊辰戦争の殉難者の慰霊塔などもあることを考えれば、小此木氏に対する二本松の人々の思いが推し量られる。

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 前野良沢 豊前・中津藩(大分県)の藩医で蘭学者。『解体新書』の翻訳作業の中核を担った。長崎遊学中に西洋の解剖書『ターヘル・アナトミア』を手に入れ、杉田玄白らと共に3年以上の歳月をかけて翻訳を成し遂げた。

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 敬学館 二本松藩の藩校で、9代藩主丹羽長富の代、1817(文化14)年に整備された。それまで藩士子弟の教育は各教授の私塾で行われていたが、それを1カ所にまとめた学校で、長富揮毫(きごう)の「敬学」と墨書された扁額(へんがく)が二本松市歴史資料館に残る。市教委の発掘で、霞ケ城の正面、昭和時代には簡易裁判所と検察庁があった場所から遺構が確認された。文武両道を目指し、二本松少年隊もここで学んだ。戊辰戦争で焼失した。