【黎明期の群像】教え子に夢託した三春藩医 学びの芽、大きく育つ

 
「舞鶴城」と称された三春城跡(手前)上空から望む城下町。直下には藩主秋田氏の居館跡に立つ三春小や町役場が、右手奥には三春駅周辺が見える。熊田嘉膳の顕彰碑がある北野神社はお城の方向を向いて立っている(ドローン撮影)

 熊田嘉膳(かぜん)は三春藩医で、幕末から明治初期にさまざまな分野で活動した人物である。

 熊田嘉膳(初め嘉門(かもん))、諱(いみな)は宗弘、号は淑軒(しゅくけん)である。岩井沢村(現田村市都路町岩井沢)の農家に生まれたが、幼いうちから賢く、見いだされて三春藩医・熊田自看(じかん)の養子となった。13歳で藩校学長の倉谷鹿山(ろくざん)に漢学、15歳で二本松藩の小此木玄智(げんち)に医学を学んだ(『熊田嘉膳履歴書』)。

 兵学求められた

 その後、江戸に出て坪井信道(しんどう)の門に入り、さらに西洋医学を学んだ後、長崎へ遊学したとされる。29歳で三春に戻り藩医となるが、医業に携われたのはその後7年ほどだった。1853(嘉永6)年のペリー来航に際し、実情を知るため現地へ遣わされ、さらに同じ時期、大砲鋳造について水戸藩から招かれたためである。

 熊田は長崎遊学で、大砲の鋳造についても調べていた。水戸藩の藤田東湖(とうこ)らより相談を受けると、銅ではなく、反射炉を造って鉄から鋳造することを答えている。熊田は盛岡藩の大島高任(たかとう)らも紹介し、ともに反射炉の建設に当たった(『大島高任行実』)。

 しかし、徳川斉昭(なりあき)の死により、その完成を見ずに三春へ戻った。この際、白銀と『大日本史』を褒美としてもらっており、熊田の教え子の一人、茨城県選出の衆院議員・野口勝一は、その『大日本史』を読んだと回顧していた。野口いわく「兵学の教えを乞うものが常に熊田のもとに出入りする」(茨城日日新聞1881年第82号)状態で、医学の道へ戻ることはかなわなかったのである。

 明治維新後、三春の若者の教育に尽力した熊田は、かつて志した医学を学ばせるに足るだけの才能を見いだしていた。村田謙太郎と三浦守治(もりはる)である。二人とも、熊田によって東京に出て、三浦義純(ぎじゅん)という医師に世話になっている。

 身分問わず援助

 三浦義純は常葉(現田村市常葉町)出身で、二本松で10年間医学を学んでから江戸に出た。苦心の末、福井藩に招かれていた坪井信良(しんりょう)(坪井信道の養子)の教えを受け、1869(明治2)年、大病院の医員となる。これは後の東京大学付属病院で、三浦義純はそこで副院長などを務め、退職してからは、神田末広町に「三春堂」と看板を掲げて一般の人の診療に当たった。彼の丁寧な診療に心打たれた村田謙太郎と三浦守治の二人は、医業を改めて志したと言われている。

 二人は大学東校で学んでドイツ留学を果たし、三浦はドイツから帰国してすぐの1887年に病理学教室を、村田は90年に皮膚科を東京大学医学部に創立した。残念ながら、将来を嘱望されつつも、村田謙太郎は若くして亡くなった。

 三浦守治は、その名で分かる通り、熊田の世話もあり三浦義純の養子となって医業を続けた。八重山(石垣島ほか)のマラリア根絶に関して、1894年に診断の先鞭(せんべん)をつけたのは彼である(『八重山群島風土病研究調査報告』)。全島民の健康状態から、生活環境に至る調査は、その後、同じマラリアの根絶を目指して台湾へ招かれた際にも生かされた。

 村田はその死後に、彼が訳した皮膚科の教科書が出版されており、三浦も、ドイツでの恩師である病理学の大家、ルドルフ・ウィルヒョウの著作を抄訳した「剖検法」などの著作が残されている。三浦自身、多くの医学生を育てた。

 熊田は若者の教育に生涯携わり、身分を問わず才能あるものを見いだし、援助した。長崎まで出て学ぼうとした西洋医学を教え子が学び、さらに教授したことは、熊田の夢でもあっただろう。彼の顕彰碑は、教え子たちの尽力により三春町の北野神社に建立されている。(三春町歴史民俗資料館主幹・副館長 藤井典子)

【黎明期の群像】教え子に夢託した三春藩医

 坪井信道 蘭方医。美濃(現岐阜県)出身で、はじめ東洋医学、その後、江戸に出て西洋医学を学び江戸で私塾を開いた。門下生に緒方洪庵、桑田立斎らがいる。

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 藤田東湖 水戸藩士で水戸学の大家。徳川斉昭の腹心となって支えつつ、多くの著作が尊王攘夷(じょうい)派の思想的基盤となった。1855年の安政の大地震で圧死した。

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 反射炉 高温を効率的に保って金属を溶かす炉で、水戸藩は水戸に近い那珂湊に2基建造した。茨城県ひたちなか市・あづまが丘公園に復元されている。

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 徳川斉昭 水戸藩の9代藩主。出身階層にとらわれず人物を登用して藩政改革を進め、農村救済の一方で大規模な軍事訓練や西洋近代兵器の国産化を推進した。幕政では攘夷を主張したが、開国を進める井伊直弼と対立して敗れ、蟄居(ちっきょ)を命じられる中で死去した。徳川慶喜の父。

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 大日本史 水戸藩の2代藩主光圀が編纂(へんさん)を始めた漢文の歴史書で、神武以来の百代の天皇の治世を扱った。水戸学の学者たちが長く編纂に携わり、1906(明治39)年にようやく完成した時点で全402巻に上った。

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 坪井信良 蘭方医。越中(現富山県)高岡出身で信道の婿養子となる。福井藩の藩医の後、幕府の奥医師となり徳川慶喜の侍医を務めた。