【黎明期の群像】慈悲と献身の人・瓜生岩 福祉の礎、築き育てる

 
喜多方市・示現寺の銅像(佐藤恒三作)

 「自分ばかりよくなったって何にもならねぇと思うのス」。福祉事業家の瓜生岩(1829~97年)は、生前こう語っていたという。彼女が困窮者の救済に取り組んだ明治時代は、富国強兵の時流に乗って富を蓄積する者が現れる一方で、衣食にも事欠く困窮者が生まれた時代であった。

失意の底、転機に

 横浜毎日新聞の島田三郎は、当時の状況を「富資の増殖に汲々たる時代なり。機械応用に専心なる時代なり。貧富懸隔の勢、非常の速度を以て進みつつある...」と指摘している。現代の格差社会とも重なる当時の世相は、弱者を競争の敗者と見て、貧困をいわば自己責任とした。必然的に「自分さえよければ...」と願う利己主義が広がっていく。その風潮に抗(あらが)うような前述の言葉は、瓜生岩の純粋な利他と慈悲の精神を示していると言えよう。

 こうした素志は、不幸の続いた彼女の前半生において培われたものと思われる。耶麻郡熱塩村に生まれた岩は、9歳で父と死別。14歳の時に会津藩侍医であった叔父の山内春瓏(しゅんろう)に預けられた。仏心篤い叔父は、休日には自宅で一般の人々を診療し、岩はそれを手伝っていた。

 17歳で結婚し1男3女を授かるが、夫の病死に引き続き母も亡くす。失意の岩は、世をはかなんで尼になろうとしたが、僧に「おまえよりもっと不幸せな人たちのためにこれからの一生をささげよ」と諭されて、福祉活動に入ったのであった。

 彼女の福祉事業は、貧児養育施設、学校、孤児院、医療機関(私立済生病院、産婆研究所)の設立、震災(磐梯山噴火、濃尾地震、明治三陸津波)の救護や被災者支援など多岐にわたる。富裕層でも華族でもないこの寡婦は、事業のために要人に支援を求め、また人々から広く寄付を集めるといった大胆な行動力と豊かな交渉力を持っていた。

 その活動は、医療・看護ともいくつかの接点を持っている。1868(慶応4・明治元)年の戊辰戦争で、岩は敵味方なく傷兵の救護を行い、食糧を調達し、孤児を収容したと伝えられる。そうした救護活動を指して、「日本のナイチンゲール」と呼ばれることもある。

無料の病院設立

 1889(明治22)年、孤児の養育施設である福島救育所を設立し、その後、福島県下3カ所に貧児養育施設を設置した。また、福島に仏教者有志による慈善団体鳳鳴会が設立されると、その女児部長に就任している。なお、大原綜合病院の創立者大原一は鳳鳴会の育児部(のちの福島愛育園)に協力し、児童に対しては無料診療を行ったほか、慈善の演芸会、琵琶会、活動写真会も開催している。

 また、貧困による妊婦の堕胎に胸を痛めた岩は、産婆教育を企画し、耶麻郡に産婆研究所を設立。ここでの講習会を受講し産婆資格を得た野口シカ(英世の母)は、のち約千件の出産に立ち会ったという。岩は会津若松にも無料診療の済生病院を設立したほか、熱塩付近に疫病が流行すると、医師を連れて村の病家を巡回しつつ、食糧を配布した。

 困窮した人々の救済のために献身的に働き、多く賛同者を得て福祉事業を開拓して育てた岩は、利他と慈悲の精神に生きた人にほかならない。(福島県立医大講師 末永恵子)

瓜生岩の像

各地に像、功績物語る

 「岩子」と語られることも多い。「生誕之地」碑(喜多方市)に刻まれた「刀自」は中高年の女性を尊敬し親愛の情を込めて呼ぶときに使われる。

 瓜生岩がいかに尊敬を集めていたかは、その像が県内外に多数残ることからもうかがえる。明治を代表する実業家渋沢栄一はよき理解者で有力な支援者だった。東京に招き東京市養育院幼童世話係長を要請したほか、1901(明治34)年に浅草の浅草寺に銅像が建立された際は委員長を務めて岩の徳をしのんだ。

 喜多方市や福島市でも岩の飾らない姿に出会える。岩の胸像を多く手掛けた彫刻家佐藤恒三は喜多方市の大和川酒造店に生まれ、東京美術学校を卒業して活躍、喜多方で美術文化を広め後進を育てる活動にも尽力した。現在の佐藤弥右衛門会長の大叔父に当たる。

 岩が創設した児童養護施設福島愛育園(福島市)には恒三作の胸像が、隣接のあすなろ保育園には子どもに寄り添う岩の像が"社会の宝"を見守っている。

 福島愛育園の100周年を記念して県社会福祉協議会が創設したのが「瓜生岩子賞」で、本県福祉関係者の最高の栄誉として、これまで29回、42人と2団体が受賞している。