【黎明期の群像】山本八重と京都看病婦学校 失った痛み、救う力に

 
八重の和歌を刻んだ「生誕の地碑」=会津若松市米代

 山本八重は、1845(弘化2)年、会津藩の砲術師範の山本権八(ごんぱち)家に生まれた。68(慶応4・明治元)年の戊辰戦争の画期をなした会津戦争では、若松城に籠城した八重たち女性は、銃で応戦したり傷病兵の手当てをしたりと活躍した。

戦争の混乱経験

 八重は、権八の弟子である但馬出石(たじまいずし)藩(現兵庫県豊岡市)出身の川崎尚之助と結婚していた。権八の娘と夫が協同して大砲の操作をしていた―という目撃談がなされている。籠城した女性は500有余人と伝えられているが、傷病者の看病や介護は藩主松平容保(かたもり)の義姉照姫(てるひめ)の指揮下で行われた。

 落城してからの山本家は一家離散の憂き目にあった。特に71(明治4)年ごろに兄覚馬の京都在住の消息が分かってから、夫尚之助の斗南藩移住、藩に関わる訴訟の責任問題などに翻弄(ほんろう)されていく。

 覚馬が京都で立身したことを受け、八重は母、姪(めい)とともに上洛。覚馬の推挙により、日本で初めての公立女学校とされる京都女紅場(じょこうば)の権舎長(ごんしゃちょう)(寄宿舎の監督者)兼教導試補(教師見習い)となった。そして、覚馬のもとに出入りしていたアメリカン・ボードの準宣教師新島襄と知り合う。75年に婚約、その翌年に結婚し、新島八重となった。

 襄が設立に奔走した京都看病婦学校は、米国人宣教師ジョン・C・ベリーの協力のもとに、同志社病院の開設と同時に開校した。大山捨松が関わった有志共立東京病院看護婦教育所に次いで、日本で2番目に開校した看護教育の学校である。

 この学校は開校当初から著名な専門家を招いて看護教育の充実に努めた。顕著な例としては、ナイチンゲールのもとで直接に近代看護を学び、米国でも看護教育の先駆者として知られる人物リンダ・A・リチャーズがいる。日本でも訪問看護の先駆け的な指導をした。

従軍し兵士治療

 1890(明治23)年、八重は襄の没後、日本赤十字社(日赤)の正社員になる。日赤は西南戦争で敵味方の別なく傷病兵を治療した博愛社の精神を受け継いでいるとされる。94年に日清戦争が始まると、八重は篤志看護婦として広島に従軍し、1904年に日露戦争が始まると今度は大阪に従軍した。

 八重は篤志看護婦人会にも志願して所属し、若い看護婦を率いる監督官として活動した。黎明(れいめい)期の近代看護を世の中に広め、その仕事の高潔さ、尊さを伝えることが八重ら監督官たる婦人会の目的だった。八重は看護活動そのものと看護婦の地位向上に貢献する活動の二つにおいて、重要な役割を果たしたのだ。

 さらに八重は戦争の経験を通じて、目前の傷病兵だけでなくその家族に対しても経済的・技術的援助をする団体として、愛国婦人会や京都婦人慈善会に設立メンバーとして関わった。八重が身をもって体験した会津戦争で、藩という国や多くの人命を失った経験が、八重の活動の規範となったのであろう。

 2013年のNHK大河ドラマに合わせた県立博物館企画展の展示解説図録『八重の桜』には、同志社大学同志社社史資料センターが所蔵している襄や八重の遺品が掲載されている。例えば1906(明治39)年の勲六等宝冠章は、日露戦争に篤志看護婦として従軍した功績が認められて授与された。ほかにも▽日本赤十字社章(明治23年)▽日本赤十字社正社員証(同)▽従軍記章(明治28年)▽日本赤十字社 篤志看護婦人会正装用帽子...。こうした遺品からも、八重の活動がいかに献身的だったかが分かるのである。(元県立博物館学芸員 佐藤洋一)

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 若松落城 旧暦では明治元年9月22日、西暦では1868年11月6日に当たる。八重は鶴ケ城三の丸の倉庫の白壁に「明日の夜は何国の誰かながむらむ なれし御城に残す月かげ」と和歌を刻んだ。この歌の第4句については「なれしみそら(空)に」と伝わる歌もあり、1909(明治42)年に八重の述懐を女性誌記者がつづった「婦人世界」(実業之日本社)でもそのように記しているが、同志社の社史などは「なれし御城に」を採用している。会津若松市米代に同志社が建立した山本覚馬・新島八重生誕の地碑にも「なれし御城に」とする歌が刻まれている。

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 アメリカン・ボード 米国で1810年に設立されたキリスト教海外伝道のための組織。1869年から日本でも布教活動を始めた。新島襄による同志社病院や京都看病婦学校の開設はアメリカン・ボードの支援によるところが大きい。

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 京都看病婦学校 同志社病院と同じ1886(明治19)年に開設されたキリスト教主義による看護学校。看病婦は看護師のこと。2年間の教育課程で近代的な知識を持つ優秀な看護師を育て、「東の慈恵」に対し「西の同志社」とうたわれた。創設資金の求めに京都や神戸の理解者が多数応じたことから、校名は地域との結び付きを意識して同志社を冠しなかったとされる。新島襄の死後は、資金面など実力者でもあった産婦人科医の佐伯理一郎に継承され、第2次世界大戦後の看護教育新制度で廃校になるまで続いた。2015年開設の同志社女子大看護学部は、直接のつながりこそないが、「看護師のお手本となるような看護師」「看護師の中の看護師」を養成する志と伝統を継ぐとしている。

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 ジョン・C・ベリー アメリカン・ボードの要請に応じて来日した宣教医で、当初は神戸を中心に貧民施設で活躍し、特に神戸監獄の囚人への医療、処遇改善に尽くした。新島襄の病院・看護婦学校の設立構想に賛同し、米国で資金集めに奔走した後、両施設の開設を実現。病院長としても活躍した。

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 リンダ・A・リチャーズ ボストン市立病院看護婦長・看護学校長を務めるなど米国内の看護婦教育の第一人者として同志社に招かれた。30代で英国留学し、ナイチンゲールの教えに触れた。京都滞在は4年余で、この間、1日数時間の授業と病院での看護実践で看護師養成に当たった。

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 篤志看護婦 志願して戦地に赴き、負傷者の手当てをした看護婦。日清戦争における八重は、正規の看護婦資格こそないものの日赤京都支部から派遣された看護婦約50人を束ねる取締役として、広島陸軍予備病院第3分院で4カ月間、負傷兵や伝染病患者の看護を指揮した。日露戦争では同様に2カ月間、大阪予備病院で指揮した。同志社女子大の吉海直人教授(日本文学)は、八重が看護婦の指揮だけでなく新聞・雑誌などの取材を進んで受けることで、まだ知名度の低かった日赤の活動を広く知らしめ、看護婦の地位向上も図る役割を担ったとみている。