【黎明期の群像】「順天堂の菅野」と呼ばれた男 最先端を伝え続けた

 
医療界に多くの人材を送り出している順天堂大=東京・本郷

 医療は日々進歩し、国内外の新たな研究成果や論文から知識を得ることはいつの時代も重要なことである。今では最新論文などがネット上に掲載され、精度の高い翻訳機能のおかげでその内容を知ることが可能である。菅野徹三(1863~1916年)は明治期の順天堂にあって、発刊されたばかりの外国の医学書を的確に翻訳し、最新医療を会員に報(しら)せ続け、「順天堂の菅野」と言わしめた。

 徹三の父三徹は、上方で修業し、戻って相馬中村藩の藩医を務め、廃藩置県後は原町(現南相馬市)で開業した医師である。徹三も父と同じく医師を目指し、17歳で上京。ドイツ語学校で学び、大学予備門に進学するが、21歳の時に父が亡くなる。祖母、母、弟2人、妹1人の養育を担うために退学したが、後に済生学舎(日本医科大の前身)に入学する。

 原書、的確に翻訳

 ドイツ語を得意とし、これを忘れないためにと、医学関係はもちろん、物理、化学などの勉強においても訳書には一切触れず、医術開業試験も答案は全てドイツ語で書いたとされる。また、弟の三郎が父や兄のように医師を目指し、帝大医科大学に入学すると、本業の傍らドイツ語学校で原書訳読科を担当し、弟の学費を得ていたという。

 医術開業試験に合格すると、順天堂の医局に入り内科医員となった。西村豊作(後の佐倉順天堂医院長・佐藤豊)がドイツに留学し、「医事研究会」の幹事に欠員が出ると、これを引き受けるとともに、会員報の『順天堂医事研究会雑誌』(以後『雑誌』)の編集に携わることになる。

 また、副院長が病気などで不在の時には、その代理を務め、婦人科担当の医師が退任し、その後任が就くまでの間を引き受けるなど、医師としても人間としても評価の高い人物であった。

 『雑誌』の編集方針は、新刊原書はすぐに読み、有益なものは会員に報告し時勢に後れないようにすることにあったという。原書を読み訳文を書く、それがそのまま『雑誌』の原稿になり、書き直しはほとんどなかったという。佐藤佐(順天堂副院長)からは「菅野君は文才のある人だった。原書を読むとそれを巧(うま)く訳す」と評された。徹三は弟に、「読書は医師の業務の最大の責務だ。それが疎(おろそ)かになれば、もはや医術退歩の時」と教えている。

 編集助手は野口

 1897(明治30)年11月、血脇守之助の依頼で、医術開業試験に合格したばかりの若き日の野口清作(英世)を編集助手として迎えた。菅野は野口に順天堂図書館への出入りを許可し、新説などの発見に努めるとともに、患者の症状を丁寧に観察し、面白いものがあったら十分調べて報告するよう求めた。野口は水を得た魚の如(ごと)く、野口清作、野口湖柳、湖柳生などの名で『雑誌』に次々と発表する。

 その後、野口は北里柴三郎の伝染病研究所へ移ることになるが、順天堂を去る際、菅野と思われる人物が誌上で「一つの事を成し遂げて得意げになる青年が多い世の中で、彼のように熱心に学ぶ人間は、まさしく有数の士といえる。私たちはその精神を称賛せずにはいられない」と、称(たた)え送り出している。

 菅野は学術研究に熱心な勤勉家でありながらも、患者に対し懇切丁寧な診療をすることから、菅野が第一線を退いた後も指名してくる患者が多かった。

 激務の中にあっても、亡くなるまでの27年間、『雑誌』の編集は続き、日本の医療の黎明(れいめい)期を支え続けた。(相馬市史編さん委員会委員長 遠藤時夫)

 追悼号人柄にじむ

 『順天堂医事研究会雑誌』は1917(大正6)年2月発行の第530号で「故菅野徹三氏追悼号」を組んでいる。
 ここでは、血脇守之助が「菅野君を追慕す」という題で寄稿したのをはじめ、順天堂医院院長や陸軍軍医総監を務めた佐藤進、副院長で宮内省侍医も務めた佐藤佐、日本外科学会長を務めた佐藤清一郎、菅野の弟で泌尿器科医の阿久津三郎ら当代の名医や医学者18人が追悼の文を記している。
 そのタイトルをなぞるだけでも「故人は奮闘の人」「高士とも云ふべき菅野君」「患者の信頼厚かりし菅野君」「敵を持たざりし菅野君」「予の先生たり恩人たりし菅野君」「色男に三度なりし菅野先生」など、菅野を幅広い視点から称(たた)える言葉が並び、いかに慕われ尊敬されていたか、人柄と功績をしのぶことができる。

【黎明期の群像】「順天堂の菅野」と呼ばれた男

 順天堂 佐藤泰然が1838(天保9)年、江戸日本橋薬研堀に蘭方医学塾「和田塾」を開いたのが始まり。佐藤は下総(現千葉県)佐倉藩の招きで佐倉に移り蘭方医学塾「順天堂」を開設、西洋外科に重点を置いた教育を行い、優秀な医者を多く輩出した。戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の軍医を務めるなど会津藩と深く関わった松本良順は泰然の実子。

 「順天」は中国の古書にしばしば登場する言葉で、「天道にしたがう」の意味がある。1873(明治6)年に東京・下谷に、75年に湯島・本郷に移った。85年には順天堂医事研究会が発足している。

 戦後、専門学校を経て1946(昭和21)年に医科大学に昇格、51年に新制の順天堂大が発足した。現在は医学部など6学部を展開。順天堂医院の開設は1873年、2代目堂主の佐藤尚中が順天堂を下谷に移した時で、現在は本郷にあり、学校法人順天堂が医学部付属として運営している。特定機能病院に指定された大規模な病院だが、名称には一貫して「医院」を用いている。

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 順天堂医事研究会雑誌 1875(明治8)年に「順天堂医事雑誌」として創刊された順天堂医学会の学会誌で、同会によると医学雑誌としては日本で最も古い。その後、数回の名称変更を経て2013(平成25)年、「順天堂医事雑誌」に戻し、現在も発行を続けている。基礎医学、臨床医学分野のほかスポーツ医学や看護学、予防医学、公衆衛生などの研究成果を紹介している。

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 血脇守之助 東京歯科大の創立者の一人で、日本歯科医師会長などを務めた。下総・南相馬郡(現千葉県我孫子市)の生まれで、英語教師を経て歯科医となった。友人に渡部鼎がおり、その書生だった野口清作(英世)が若い血脇を頼って上京すると、才能を認めて長く支援した。

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 北里柴三郎 日本医師会や北里大、慶大医学部をはじめ多くの研究機関を創立した医学博士で「近代日本医学の父」「感染症学の巨星」などと称される。微生物学、伝染病研究でノーベル生理学・医学賞の候補にも名前が挙がった。ペスト菌の発見者としても知られる。肥後(現熊本県)出身。