【黎明期の群像】阿久津三郎と佐藤恒祐 泌尿器科の独立貢献

 

 明治以来、日本における泌尿器科学は皮膚科学に付随するものとして一体に扱われていた。1912(明治45)年、日本泌尿器病学会の発起人の中に2人の相馬人がいた。

 渡欧経験生かす

 阿久津三郎(1873~1932年)は、「順天堂の菅野」と呼ばれた菅野徹三(1月10日付3面に掲載)の弟である。1888(明治21)年に上京し、兄の世話になりながらドイツ語を習い、ドイツ学校に入学する。94年に帝大医科大学に入学する。兄の徹三が高等中学校時代に知り合った佐藤進(順天堂3代目院長)との縁で順天堂の医師の阿久津家に養子となった。98年に卒業し、大学付属の第一医院外科助手となり、1900(明治33)年より順天堂医院に勤務した。

 1901年、佐藤恒二(佐倉順天堂4代目院長)らと渡欧した。ベルリン大学、ウィーン大学で、主に泌尿器外科を学ぶ。03年に帰国し、直ちに順天堂に泌尿器科を創設した。恐らくこれが民間最初の泌尿器外科で、以来順天堂はこの分野で「メッカ」と評された。

 1906年までに三郎が執刀した腎臓の摘出手術は20例に及び、これは他の追随を許さないという。08年に医学博士となり、12年には朝倉文三、佐藤恒祐らとともに日本泌尿器病学会を設立した。当時、泌尿器科と皮膚科はその対象として性病を多く扱っていたことから両科は一体化していたが、欧州の先進医学を学んできた彼らには、泌尿器科を独立させるという強い思いがあった。三郎は15(大正4)年、泌尿器病学会会長に就任した。

 1916年、神田連雀町に「阿久津病院」を開業したが、23年の関東大震災により自宅、病院ともに焼失した。同年秋から慶応大学の客員講師となり、診療、手術、講義を行う。

 慶応の泌尿器科第2代教授田村一は「全く野にあった明星を吾教室に御迎へ出来た事は私学の誇であった」と述べている。

 三郎の性格は円満で、経済観念が不足していたところは兄の徹三と同様だったが、時間には几帳面(きちょうめん)さを欠いていたという。

 患者に対しては「自身の考えをよく伝え、理解してもらうこと。患者の意志を尊重してその自由選択に委(まか)せること。そうした後に、患者がその治療法を求める場合に、その治療にベストを尽くした」という。

 夏目漱石を治療

 佐藤恒祐(1880~1964年)は、中村町(現相馬市)の裕福な商家鈴木忠助の次男に生まれ、間もなく同町の開業医佐藤昌庵義信の養子となる。1896(明治29)年、父が亡くなると菅野徹三を頼り上京する。大成学館尋常中学校から第二高等学校の医学部(後の仙台医学専門学校)に進学し、卒業すると菅野がいる順天堂医院で勤務する。

 北里研究所へ転出した野口英世の後任で「順天堂医事研究会雑誌」の編集に携わるとともに、帝大医科大学皮膚科教室で研究することを認められ、泌尿器科学を修め、次々と「雑誌」に発表した。
 また、阿久津三郎の助手として研究、治療に専念していた。

 1909(明治42)年、神田錦町に「佐藤泌尿器科診療所」を開業し、特に花柳病(性病)治療に力を尽くした。当時の状況は、佐藤の大著『淋(りん)病と尿道鏡』によると「当時、淋病患者は合理的治療を得ずに漠然と専門外の医師の間を、何の啓蒙(けいもう)もなく、転々とする漂泊者の如(ごと)き愚かにも悲しむべき状態にあった。社会一般的に性病を軽侮するような風潮があるだけでなく、診療する側の医師自身も、自らを卑下する傾向がある。泌尿器科専門家の間には、新境地開拓のための研究にばかり熱心になり、実際の診療は単に惰性的に、しかも姑息的に薬を塗って終わるだけで平然としている医者も少なくない。そんな医者のせいで治療は進まず、何等の進歩もないまま」だったという。

 また、「花柳病の罹患(りかん)率は他の病気に劣らず、人類の福祉繁栄を脅かすものであって、世間の軽んじる風潮の是正は急務である。結核、癌(がん)、癩(らい)(当時の原文のまま。ハンセン病)等と同様に、国家的研究施設機関の設立が必要だ」と病気の蔓延(まんえん)に警鐘を鳴らしていた。その強い思いもあってか、診療所は最初から順調で、佐藤の淋病撲滅への研究に拍車が掛かった。

 この頃、夏目漱石の痔(じ)疾の手術、治療を行い、その診察室、待合室、病室、研究室は未完の絶筆『明暗』の舞台となった。漱石は佐藤を「虚言をつかない、職業に誠実な、自信ある医師」と評価している。

 1919(大正8)年、「佐藤式尿道鏡」で特許を取得。22年には「男子尿道の形態学研究」で医学博士となっている。(相馬市史編さん委員会委員長 遠藤時夫)

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 『明暗』 夏目漱石が1916(大正5)年、朝日新聞に連載した長編小説。漱石が途中、病死したため未完の絶筆となった。痔(じ)の治療に難儀する主人公と妻の夫婦関係を軸に元恋人らが絡む。人間のエゴイズムを漱石の造語「則天去私(そくてんきょし)」(天に則(のっと)って私心を捨てる境地)に沿って描いたとされる。

 高度な診療後進に衝撃

 阿久津三郎の名医ぶりを綴(つづ)った文章が「臨床泌尿器科21巻1号」(医学書院、1967年)に残されている。泌尿器科医の石原正次が記した『阿久津三郎博士の想出の二、三』で、1910(明治43)年ごろ、千葉医専(千葉大医学部の前身)で阿久津の診療風景を若くして見る機会に恵まれた筆者の回顧録だ。

 それによると、「東京順天堂で泌尿器診療の名声高い阿久津博士」に来院を求めて診察してもらい、それまで泌尿器科について何の知識も持っていなかったので非常な感銘を受け、筆者の進む道を泌尿器科医に向かわせたという。

 診療風景の概要は次のようになる。「膀胱(ぼうこう)鏡を覗(のぞ)かせてもらったが、膀胱内景が手に取るように見え、両側の輸尿管口にカテーテル(管)が挿入してあって、その外端に腎臓から排出された尿を左右二つの試験管に受け集められていたが、あらかじめ注射された(腎機能検査用薬の)インヂゴカルミンによって青く染まった尿が、一方は鮮かな青色透明な尿であり、一方は濁りの著しく目立った尿であった。これで一目瞭然、一方の腎臓は健全であるが一方は病的である事が誰が見ても議論の余地が無い、一側腎の腎盂腎炎(じんうじんえん)であると確診された。膀胱鏡検査を用いる泌尿器科診断法のすばらしさを知った」という。(一部口語訳と句読点加筆)

 明治後期、最新の洋館に

 菅野徹三、阿久津三郎の兄弟や佐藤恒祐が活躍した明治期の順天堂医院については『順天堂医院の今昔』(酒井シヅ、順天堂大ウェブサイト)で知ることができる。

 それによると、東京・下谷に1873(明治6)年に開院した当時は2階建てに50部屋の建物で、増築を重ねても慢性的な病室不足に陥った。湿地帯で病人には向かない事情もあったようだ。そこで高台の湯島に3500坪の土地を見つけて移転新築したのが2年後。江戸時代に「火消し屋敷」だった土地で、巨額の建設費は前田家から借りた。

 当時、大きな建物と言えば大名屋敷だったが、大広間ばかりでは病人が雑魚寝するしかなく参考にならない。診療施設に見合った個室がある造りは旅館や遊郭に限られ、医院の建物は病人がゆったりできるように吉原遊郭をモデルにした日本建築になったという。

 一転して最新の洋館となったのは1906(明治39)年で、3代目院長の佐藤進が新病棟整備を推し進めた。病室には鉄のベッドが入り、スチーム暖房や電灯など最新設備も備えた。この頃の御茶ノ水界隈(かいわい)は野山の雰囲気が色濃く残り、市電が通る医院前の外堀通りも人通りも今ほどではなかったが、院内はにぎわっていたようだ。

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 1923(大正12)年9月1日、関東大震災。阿久津病院と同様に順天堂医院も焼け落ちた。水道橋の方から火の粉が降って病棟が燃え始め、さらに神田方面からの火の手が駿河台一帯に広がって医院に迫る。上野公園を目指して避難を決断、歩ける患者以外は看護師が背負ったり、担架に乗せて運んだりし、一人の負傷者も出さずに上野精養軒前までたどり着いた。医院は4、5年の時を経て再建されている。