【黎明期の群像】世界の「イノ・クボ」 内視鏡、新しい常識に

 

 医療現場で欠かせない内視鏡。現在では、光を伝送する光ファイバーが用いられ、内蔵の超小型カメラによる高画質映像で体内の様子が観察できるし、見つかったポリープを除去する治療機能も持っている。さらに近年では、小型カメラを内蔵したカプセル状の内視鏡まである。そうした便利で優れた医療機器も、源流をたどれば身体の中を正確に観察すべく発明された棒状の内視鏡であった。

 将来性買われた

 久保猪之吉(1874~1939年)は、これを効果的に使って診断・治療の分野を開拓した先駆者で、日本の耳鼻咽喉科学のパイオニアといわれる。

 彼は、二本松藩士であった久保常保の長男として生まれた。実母コウは、二本松藩医・小此木天然(2021年10月18日付3面「黎明(れいめい)期の群像」10回参照)の孫に当たる。しかし、彼女は猪之吉を産んだ7日後に家風に合わないと離縁され、里に返された。やがて父は再婚し、継母が来る。猪之吉少年には異母弟妹ができたが、父は薄給で大酒飲み。生活は楽ではなかった。彼は、水汲(く)みや子守りをし、いつも妹か弟を小さい肩に背負いながら勉強していたという。

 福島県尋常中学校(現安積高)を受験する際、家が貧しいため、不合格の場合の進路は丁稚(でっち)奉公と決められていた。ところが受験科目には小学校では教わらなかった英語があった。猪之吉は、他教科は満点であったにもかかわらず、英語の成績が極端に悪く、入学判定会議で不合格になりかけた。しかし、一人の教師が猪之吉の将来性を強く主張したことから合格が叶(かな)ったのであった。

 期待に違(たが)わず中学校では優秀な成績を収め、第一高等学校を経て東京帝国大学医科大学(現東京大医学部)に入学。卒業後ドイツのフライブルク大に留学して耳鼻咽喉科学を研究し、帰国と同時に京都帝大福岡医科大学(現九州大医学部)教授となり、同大学の耳鼻咽喉科学教室を創設した。

 切開せずに摘出

 「気管支鏡の父」とされたグスタフ・キリアンに学んだ彼は、気管支鏡を使って本格的に患者の検査を始めた。診断に加え、1907(明治40)年、気管支鏡を使って男児の気管支から太鼓の鋲(びょう)を除去し、日本で初めて内視鏡下の治療に成功している。こうして、異物摘出には気管を切開するというそれまでの常識が覆され、咽頭鏡、気管支鏡、食道鏡などの内視鏡を使用する治療法が定着していった。

 加えて、大動脈瘤(りゅう)やリンパ節腫脹などの診断・治療に内視鏡を応用する分野が花開くのである。彼は業績を積み、「イノ・クボ」の名で世界にも知られるようになった。

 また、医学ばかりでなく文学の才能にも優れ、妻のより江とともに短歌、俳句を楽しんだ。夏目漱石、長塚節、柳原白蓮、落合直文などの文人とも親交があり、福岡初の文芸誌『エニグマ』を発刊したことでも知られる。たゆまぬ努力で医学研究に邁進(まいしん)するとともに、豊かな文学的感性を持っていた人物であった。(福島県立医大講師 末永恵子)

          ◇

 夫妻で文学愛し名を残す

 久保猪之吉は歌人、俳人としても知られている。若くして宮城・気仙沼出身の歌人落合直文に師事し、仲間と「いかづち会」を結成して当時の短歌界に革新的な提言をするなど新派和歌の普及に当たった。

 一方、妻より江は松山市の裕福な家に育ち、少女のころに夏目漱石や正岡子規と面識を得て可愛(かわい)がられた。『吾輩は猫である』に登場する女学生のモデルという説がある。

 二人は1903(明治36)年に結婚し、久保の単身ドイツ留学を経て、東京から福岡に移った。夫妻の住まいには文化人が集い、「久保サロン」となっていく。サロンの"主"は俳人のより江で、高浜虚子に師事して俳句誌『ホトトギス』の同人となったほか、句集選者や文筆活動で活躍した。久保も妻の影響で俳句に転じ虚子に師事、「ゐの吉」として『ホトトギス』に句を載せながら句集『春潮集』を残している。

 1913(大正2)年に夫妻を中心に発刊した文芸誌『エニグマ』は、九州帝大医学部の教官や学生らも編集に当たった。4年間に20号前後が発行され、福岡の近代文学史の源流と位置付けられている。

 久保は蝶(ちょう)や高山植物の研究家としても名が通るなど、各分野に意欲的に臨む学びの人だった。大学退官時に至っても「わが生の行路新たなり草紅葉」と詠み、より江は「ふりかえる路幾すぢや草紅葉」と応じている。

          ◇

 フライブルク大 1457年創立のドイツの国立大学で、正式名称はアルベルト・ルートヴィヒ大フライブルク。フライブルク大は通称。国内5番目に古くて権威のある大学で、欧州でも名門に数えられる。

          ◇

 九州大医学部 福岡県立病院を母体に1903(明治36)年に設立された京都帝大福岡医科大が始まり。8年後に東京、京都、東北に次ぐ全国4番目の帝国大学として九州帝大が創立され、工科大と並んで九州帝大医科大に名称を変更、その後、九州帝大医学部、さらに1947(昭和22)年に現在の九州大医学部となった。久保猪之吉が耳鼻咽喉科学教室を開設したのは1906(明治39)年4月で、翌年2月から診療が行われた。

          ◇

 グスタフ・キリアン ドイツの咽頭専門医で世界的権威、気管支鏡検査の創設者。開発した新技術により検査や気管支に入った異物の除去が著しく進歩したとされる。

          ◇

 イノ・クボ 久保猪之吉はその実績から「イノ・クボ」として世界に知られた。欧米各国の学会で研究発表を精力的に行い、自らも欧州視察などで学びを深めた。世界の「イノ・クボ」のもとで学ぼうと中国やフィリピン、ドイツなどから留学生が九州帝大の門をたたき、耳鼻咽喉科学教室は国際的な雰囲気に包まれた。デンマークの首都コペンハーゲンで1928(昭和3)年に第1回国際耳鼻咽喉科学会が開かれると日本代表として出席し、二つのテーマで研究発表した。役員会議や晩餐(ばんさん)会では最前列ほぼ中央の重鎮席を用意されたという。世界最古の学会とされるドイツ自然科学アカデミー・レオポルディーナの会員となり、フランスのレジオンドヌール勲章も受けている。

          ◇

 久保記念館 九州帝大の耳鼻咽喉科学教室20周年を記念して1927(昭和2)年、久保猪之吉の功績をたたえる日本初の医学史専門博物館として大学構内に開設された。同門会が久保に寄贈し、久保から大学に献呈された。館内には久保らが長年にわたって収集した耳鼻咽喉科に関する書籍や論文、標本、医療器具などを収蔵する。久保は蔵書家として知られ、自身も多数の学術論文、論考、エッセーなどを残したが、献呈式では、国内外の貴重な資料などを引き継いでいく医療人の責務を強調したという。記念館は内外装の改修を経て、今も後進を刺激し続けている。