【黎明期の群像】「台湾医学衛生の父」高木友枝 海越えて防疫尽くす

 
高木友枝(学校法人北里研究所提供)

 高木友枝は1858(安政5)年、泉藩領松小屋村(現いわき市渡辺町松小屋)の郷士の家に生まれた。

 郷士とは農村に住みついて農業を営む武士のことである。高木家は代々、集落の発展を願って各種公共事業を行った。友枝の兄直枝は二毛作に馬鈴薯(ばれいしょ)を導入し、農家の収入増大を図った。福島県会議員も務めた。

 友枝は兄の援助を受け東京に出て、適塾から警察医学校に移り、大学東校(後の東京帝国大学医学部)に編入した。

 北里の一番弟子

 1885(明治18)年、東京帝国大学医学部を卒業後、福井県立病院長に就任、3年後には鹿児島県立病院長に転じたが、大学の2年先輩である北里柴三郎が伝染病研究所(伝研)の所長に就任すると、職を辞して北里の元へ駆け付け、助手となった。伝研では北里から細菌学の手ほどきを受けた。その意味では、友枝は北里の一番弟子である。

 伝研に入所した翌年の1894(明治27)年3月、香港でペストが発生し、北里が調査に出向いてペスト菌を発見する。友枝も後に香港へ出向くが、滞在中に日清戦争が勃発し、街を通行中に罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びて投石された。

 さらに95年7月、日清戦争の凱旋(がいせん)部隊の間にコレラが発生する。友枝はこの調査のため、後藤新平に請われて広島沖の似島臨時検疫所へ出張した。後藤のもとで防疫業務を成し遂げ、伝研へ戻ると治療部長を命じられた。96年には内務技師に任ぜられ、血清薬院長に就いた。友枝は東大在学中から後藤と面識があり、二人のつながりはその後も続く。

 97年5月、友枝は日本代表としてモスクワの万国医事会議に出席し、その足でベルリンの万国癩(らい)(原文のまま。ハンセン病)会議に参加した。また、内務省留学生としてコッホ研究所へ通って研究を重ねた。友枝はこの時、パラチフスに感染し、寄宿先の家人から手厚い看護を受ける。それが縁となって、後にこの家の次女ミンナと再婚している。

 現地偉人が称賛

 ドイツ滞在約2年を経て帰国の途に就くと、神戸でペスト発生の知らせが入った。神戸・大阪地域のペスト撲滅事業の主任者となった友枝は、有能な人材を率いてペスト退治に成功し、内務省衛生局防疫課長となる。

 1902(明治35)年、台湾総督府民政長官となった後藤新平の要請で、台湾総督府医院長、同医学校長に就いた。当時台湾では、大陸からペスト病毒が侵入し、猛威を振るっていたという。そのためネズミ駆除と防鼠(ぼうそ)家屋の建築を奨励するなどした。また、全島にまん延していたマラリアの撲滅にも尽力した。この年に妻を亡くしており、ドイツから後妻を迎えたのは2年後となる。

 1909年、友枝は後藤を説得して総督府研究所を創設し、初代所長に就いた。

 さらに19(大正8)年、明石元二郎総督の要請を受けて、台湾電力株式会社の初代社長に就任した。台湾電力は、台湾中部の湖・日月潭(じつげつたん)に上流の濁水渓からトンネルで導水し、落差を利用した水力発電を計画、第1次世界大戦後のインフレや関東大震災の発生などで工事の休止・再開を繰り返しながらも、1934(昭和9)年6月竣工(しゅんこう)、翌月に送電を開始した。

 湖の水深はこれによって最深6メートルから27メートルとなり、今では湖自体が台湾中部観光の目玉になっている。

 友枝は事業途中の29年、電力会社を辞し、東京へ引き揚げる。台湾生活は44歳から71歳までの27年という長期に及んだ。43年死去。享年85だった。

 友枝が校長の時、医学校に入学した人物に杜聡明がいる。卒業後、友枝が初代所長を務めた研究所に入り、細菌学研究室に勤めた。台湾医学界では、教授の中の教授、名医の中の名医、学者の中の学者と評された、その杜聡明が友枝を「台湾医学衛生の父」と称(たた)えている。

 もう一人、「台湾の魯迅(ろじん)」とも評される頼和は、医学校を卒業後、医業と文化運動を続け、詩人・作家としても名を残した。その頼和の遺稿は『高木友枝先生』である。(いわき地域学会代表幹事 吉田隆治)

 碑文と短歌、古里に

 高木友枝の生家近く、いわき市渡辺町松小屋字大沢に、友枝の筆による「大沢隧道(ずいどう)記念碑」=1939(昭和14)年建立=がある。碑は「従三位勲二等医学博士高木友枝閣下筆」と刻んだ後、「本隧道の開鑿(かいさく)は明治十九年故高木直枝翁が自費を投じて山頂に道を開きたるに始まる」という一行から始まる。

 秋の日、隧道をくぐり、記念碑を訪ねた。黄金色の稲穂を刈るコンバインが動き回り、隧道を軽トラックが行き交っていた。記念碑は隧道の先の丁字路の角に立ち、あらまし次のようなことが記されている。

 〈道路開鑿工事が難航し長い中断の後、1938年に再び開発の議がおきた。当時、渡辺村は農林省から経済更生村に指定され、次いで特別助成村となって、この事業に助成金が交付された。地元松小屋も工費と作業員を出して着工、翌39年竣工(しゅんこう)した。隧道は延長100メートル、道路の延長570メートル、幅3メートルである。松小屋は大沢地区に100ヘクタール余の山林を共有する。その開発はこの道路に頼らざるを得ない。松小屋の人々は先人の遺志を継ぎ、一致協力して事業を完成した。真に昭和聖代の美事というべきである〉(筆者訳)

 碑の裏面には友枝の短歌が彫られている。

「さと人の力合せて開きつる道の直きを忘れやわすれ」

 裏面は石ゴケが生えて判読不能のため『渡辺町史』に載ったものを引用した。

 高木家について一言添えておく。友枝の兄直枝については先述したが、直枝の孫善枝も戦前、村長を務めた。記念碑が建てられた1939年は出征中だったが、翌40年には村長に復職。名実ともに村の政治・経済の指導者として名を残した。

 高木家への崇敬の念が、台湾から東京に戻り悠々自適に暮らしていた82歳翁・友枝への碑文依頼となったのだろう。(吉田隆治)

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 適塾 緒方洪庵の次男惟準(これよし)が東京・神田駿河台に開いた東京適塾。惟準はオランダ留学を経て明治天皇の侍医、陸軍軍医などを務めた。

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 後藤新平 日清戦争後の兵員の大規模検疫を成功させた医師、政治家。須賀川医学所で学んだ。(2021年8月2日付「黎明(れいめい)期の群像3」に掲載)

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 コッホ研究所 世界的細菌学者ロベルト・コッホ(1843~1910年)により1891年に設立されたプロイセン王立伝染病研究所。現在もドイツの政府機関として感染症対策を担う。北里柴三郎もコッホから教えを受けた。

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 パラチフス パラチフスA菌による全身性の感染症で、腸チフスに似た高熱、頭痛、食欲不振、便秘や下痢などの症状が出る。世界では開発途上国を中心に年間数百万人がかかると推定されている。

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 総督府医学校長 後藤新平の提案で1897(明治30)年、台北の総督府医院内に医師養成所を開設、99年に医学校とした。高木は2代校長。功績に詳しい段瑞聡(だんずいそう)慶応大教授によると、台湾人の間で医師は待遇の悪さから不人気の職業だったが、高木は自ら島内を回って受験を説いた。東京帝国大医学部などから優秀な教員を招き、自身も教壇に立って「医師になる前に人になれ」と教え、医師のモラル向上を図った。西欧列強が植民地経営の柱に布教を置いたのとは違い、高木は台湾人医師の養成で伝染病に対する知識など衛生、医療を普及させることを重視。日本側の懐疑的な雰囲気に反して現地の人材発掘と育成に情熱を注ぐ真摯(しんし)な指導姿勢が、生徒の尊敬を集めた。後身の台湾大医学部に胸像が残る。

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 総督府研究所 台湾総督のもとに1909年に設置された。衛生学部、化学部を置き、人や家畜の伝染病、細菌や衛生全般から、産業を興すのに必要なさまざまな研究まで担った。高木は、台湾の発展には台湾の風土に合った防疫研究や学術振興が欠かせないと確信し、後藤新平には「台湾の文化向上に寄与する殿堂」とするよう提言している。その後、醸造学部や動物学部なども設けて台湾社会の発展に貢献した。

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 杜聡明 1893~1986年。台湾で初めて博士号を取った医学者。台湾総督府医学校を首席で卒業。台北帝国大医学部教授や、高木が設立した台湾医学会の会長も後年務めた。高木の没後には『高木友枝先生追憶誌』の刊行会代表として「先生は天資明敏、政治的手腕高く、よく人心を洞察し、しかも清廉潔白常に身を以て範を示され、人間として実に偉大なるものがあった」と書いた。

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 頼和 1894~1943年。台湾総督府医学校卒。医業の傍ら、日本の植民地統治に対して不屈の抵抗精神をたぎらせ、詩や文学、社会運動に力を入れた。文芸雑誌の編集を通して作家を育てたり、左派の運動を支援したりした。