【黎明期の群像】「天皇のお医者さん」三浦謹之助 外遊に随行、厚い信頼

 
三浦謹之助功徳碑=城取神社

 福島県の北東部にある伊達市。江戸時代後半から明治にかけて蚕種製造や養蚕で財を成した家が多く、数多くの文化人や医家を輩出した。「明治天皇や大正天皇のお医者さん」を務めた三浦謹之助もその一人である。

 民間からの登用

 旧高成田村(現伊達市保原町富成)には三浦良純(りょうじゅん)という漢方医が住んでいた。その2代前に米沢の方から移ったという伝承がある。良純には7人の息子がいたが、長男の有恒(ありつね)を含め道生(どうせい)(次男)喜久田(きくた)(三男)良達(りょうたつ)(四男か)の名前が知られている。喜久田を除いて3人が蘭方医の道に入った。

 謹之助は1864(元治元)年3月21日、道生の長男として生まれた。母里子(佐登子)は伊達郡伏黒村(現伊達市伏黒)の豪農・佐藤与惣左衛門の長女。父道生は自宅で内科・眼科の医業を行い、特に白内障の治療は近隣で著名だった。

 謹之助は地元小学校を経て1877(明治10)年に上京、啓蒙(けいもう)学舎でドイツ語を学び、東京帝国大学医科大学予科、本科へ進んだ。87年に東京帝国大学医学部本科を卒業すると、「お雇い」のドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツの助手となった。

 90年からドイツ、フランスに留学しベルリン大学のゲルハルト教授や、マールブルク、ハイデルベルクなどの大学で内科学、神経学、生化学などを学ぶ。次いでパリのシャルコー教授に付いて神経病学を学んだ。

 92年に帰国すると東京帝国大学医学部講師から助教授へと昇格。95年には同医学部医学科の内科学講座で教授佐々木政吉の後任教授に就任し、定年の1924(大正13)年まで務め上げた。

 明治期に日本の医療教育体制の確立に尽力した人々の中に福島県人は多い。例えば東京帝国大学医学部の教授としては県内出身者で隈川宗雄(福島町、生化学講座)三浦守治(田村郡御木沢村、病理学講座)そして三浦謹之助の3人が活躍している。

 謹之助は教授として1912(明治45)年、同じく医学部教授の青山胤通と共に、新たに宮内省御用掛に加わった。それまで宮中の医療は宮内省侍医局が担当していた。謹之助は皇室の信頼も厚く、明治天皇や大正天皇を拝診した。

 第1次世界大戦のパリ講和会議に全権として臨んだ西園寺公望や、皇太子時代に外遊した昭和天皇には随員として渡欧した。謹之助は皇太子外遊時に「君主としてのお仕事にはストレスが伴うことが多いと存じます。何か趣味をお持ちになった方がストレス回避に役立ちます」とし、この言葉が後に昭和天皇と生物学を結ぶきっかけとなった。

 瞬間診断を重視

 1923(大正12)年にロックフェラー財団の招きで団長として渡米した際は、ロックフェラー医学研究所の野口英世と懇談、後に野口の叙勲に尽力する。

 医学研究では東北地方に流行する首下がり病の研究で成果を上げたり、回虫卵に受精卵と未受精卵の別のあることを確認し、サントニン(駆虫薬)は胃では解けずに腸で吸収されて後に効力を発揮する特性を発見したりした。

 また、日本古来の伝統的な武術である柔道や鍼灸(しんきゅう)を調査し、西洋医学との融合を目指した。

 現代医学では血液検査や画像診断で病気を診断するが、当時は視診・打診・聴診などが主な診察技術だった。謹之助は日ごろから患者を観察し、いろいろな情報を蓄積して「瞬間診断」することが大切だと教えている。

 また、日本神経学会や日本内科学会の設立に寄与し、1925(大正14)年から50(昭和25)年の逝去の年まで日本内科学会理事長を務め、『三浦内科学』などの教科書を出版した。49年に文化勲章を受章している。

 定年退官後は東京都同愛記念病院長として活躍していたが、故郷への思い捨てがたく33(昭和8)年、高成田村に里帰りした。村は福島から通る道を整備し、村民を挙げて迎えた。この時に謹之助は日本画の掛け軸、孟子の一節を揮毫(きごう)した扁額(へんがく)を残している。地元の城取神社には功徳碑が建立された。

 大正から昭和にかけて、富成小(伊達市。現在は廃校)の卒業アルバムには謹之助と三浦省軒(せいけん)の兄弟の写真が1ページ目に掲載され、2人の業績を地元の誇りとしていた。今も伊達市保原中央交流館の前には、彼の功績を讃(たた)え明治百年記念事業として建立された「三浦謹之助博士の胸像」があり、遠く西の稜線(りょうせん)を望みながら後輩たちの志を刺激し続けている。(伊達市保原歴史文化資料館学芸員 高橋信一)

城取神社の地図

 啓蒙学舎 東京・神保町にあった語学を教える私塾。

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 エルヴィン・フォン・ベルツ ドイツの内科医で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人の一人。東京帝国大学医学部で医学の教育と研究、診療に従事し、日本の内科学の礎を築いた。

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 ゲルハルト ベルリン大学医学部付属病院の内科教授。謹之助は有栖川宮の訪欧に医師として随行した後、私費留学で残ってゲルハルトに入門し、ペンキ職人の鉛中毒に関する研究などで現地の注目を集めた。

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 シャルコー フランスのサルペトリエール病院の神経病科教授、神経科医。発展途上にあった神経学や心理学に影響を与えた。まず患者を視診し、およそどういう病気かを考える「瞬間診断」を重視し、謹之助もこれを学んだ。

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 宮内省御用掛 宮内省の命を受けて用務をつかさどる職。それまで皇室、皇族、華族の診療は侍医が担っていたが、明治天皇の病気が悪化したため山県有朋の意向で大学教授を顧問として招くことになり、謹之助と青山が呼ばれた。糖尿病を持っていた明治天皇は尿毒症の症状を示し、畳の上にじゅうたんを敷いた御寝所で2人は交代で診察に当たった。背中に聴診器を当てることもできないなど制限が多い中でも、初めて酸素吸入を試みるなどした。明治天皇は1912(明治45)年に逝去したが、謹之助は宮内省関係者の受けが良く、報道機関への説明も丁寧で、「中央公論」に名医と紹介されるなどして名声が広まった。謹之助は大正に入っても引き続き御用掛に任命され、病弱だった大正天皇が御用邸で療養中でも侍医から電話連絡を受けて助言したり、皇居へは駿河台の自宅まで迎えが来て診察に出向いたりした。大正天皇が逝去した1926(大正15)年には葉山御用邸に泊まり込んで診療に当たった。

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 西園寺公望 公家、公爵。明治、大正期に2度にわたり首相を務めた後、元老として事実上の首相選定者となった。パリ講和会議に首席全権委員として臨む際、医師として謹之助の随行を強く求めたとされる。

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 首下がり病 青森県や岩手県などで夏から秋に流行した地方病で、謹之助は現地に出向いてスイス農村部の症例報告と比較しながら研究した。ウイルス感染による神経疾患だが、ウイルスが検出できない時代に謹之助は「一種の小有機体が原因」とみていた。

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 サントニン 回虫などを駆除する虫下し薬。主にキク科ヨモギ属のシナヨモギ、ミブヨモギなどのつぼみに多く含まれる。

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 同愛記念病院 関東大震災の後、米国からの義援金の一部で財団法人を設置し、甚大な被害を受けた東京・東両国に病院を建設した。戦後はGHQに接収されたが、1956(昭和31)年に社会福祉法人のもとで再建された。

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 三浦省軒 謹之助の父道生は長く子どもに恵まれず、同じ高成田村から道生に師事していた佐久間良庵が養子に入って医業の研さんを積んだ。道生が年を取ってから謹之助が生まれたため、良庵は道生の弟で福島藩の藩医だった良達の養子に入り省軒と改名、江戸に出て医術を磨いた。戊辰戦争では福島に戻り多くの負傷兵を治療した。その後、東京帝国大学医学部1期生として卒業し、須賀川など全国各地の医学校長や病院長を担い、宮内省の侍医も務めた。樋口一葉の死亡に立ち会って死亡診断書を書いている。謹之助と同じく城取神社に碑が立っている。