【黎明期の群像】会津で培われた学力 英世鍛えた医書翻訳

 
野口の生家と野口英世記念館(右手前)の上空から磐梯山を望む。野口は猪苗代の地で青雲の志を立て、世界へ羽ばたいた(ドローン撮影・石井裕貴)

 野口英世(1876~1928年)は、人一倍の努力により成功した、立志伝中の人物である。渡米して数々の研究成果を発表して世界で名を馳(は)せ、3度ノーベル生理学・医学賞候補となったが、黄熱病の研究中に自身も感染し殉職した。彼の処世訓は「忍耐」であった。波瀾(はらん)万丈の生涯において貫かれた努力と忍耐、そして社会的成功というストーリーは、偉人伝にふさわしく、幾多の伝記を生んだ。

 しかし、やみくもな努力や忍耐だけでは、成功はあり得ない。研究には基盤となる学力がなければ成果に到達し得ないからである。では、彼はどのように医学研究の基礎となる学力を身に付けたのか。その一端を探ってみたい。

 研究の基礎学ぶ

 英語に堪能な会津若松の開業医・渡部鼎(かなえ)と野口英世とが共同で翻訳・編纂(へんさん)した、クレメンス・フォン・カールデンの『病理学的細菌学的検究術式綱要』が1899(明治32)年に出版された。この本は、渡部が英世に医学を教える際に使ったテキストである。

 この原著を詳細に調べた殿崎正明氏らの研究によると、英世は英語版を訳した上で、出版前にドイツ語原典にも当たって訳出したことが分かった。この病理学・細菌学の研究方法を記した書籍を翻訳することにより、内容を詳しく読み込んで研究の基礎知識を身に付けるとともに、語学力も向上させたとみられる。殿崎氏らは、英世が短期間で医術開業試験に合格することができたのも、このテキストによる学習の成果であると指摘している。

 語学力生かした

 周知のように彼は、会津の農家に生まれ、1歳の時に囲炉裏(いろり)に落ちて左手に火傷(やけど)による障害を負った。尋常小学校では左手を友人に揶揄(やゆ)され、勉強も怠りがちであった。しかし、母シカから「学問で身を立てよ」と諭され、勉学に励むようになる。卒業試験の際、彼は猪苗代高等小学校の首席訓導・小林栄によって才能を見いだされ、同校へ進学した。そして、そこで書いた左手の障害を悲しむ作文が同級生や小林の心を動かし、手術費用が集められ、前述の渡部鼎により手術が行われたのであった。

 この手術が医学を志すきっかけとなり、1893(明治26)年から渡部の経営する会陽医院に書生として住み込み、医学を学ぶ。そして、上京して96年に医術開業前期試験に合格、翌年には医術開業後期試験にも合格し、異例の速さで医師免許を取得した。就職した伝染病研究所で、訪米時に病理学者のフレクスナー教授の通訳を務めることができたのも、英語の語学力があったからにほかならない。

 フレクスナーを頼りに渡米し、そこで取り組んだ蛇毒の研究で認められ、その後さらに梅毒や黄熱病の研究で多数の画期的論文を発表していく。

 英世が猪苗代から世界に羽ばたくことができた要因の一つには、会津における医学書翻訳で培った豊かな基礎学力の存在があった。(福島県立医大講師 末永恵子)

 初恋の女性も医師に

 野口英世が会津での少年時代に勉学だけに明け暮れていたかというと、そうでもない。野口英世記念会の元専務理事小檜山六郎氏が福島民友に連載した『野口英世 医聖を育んだ人々』(2006~07年)には野口の告白をきっぱり断った初恋の女性・山内ヨネが登場する。

 医師を目指して会津若松で猛勉強していたヨネの元に、漢文や外国語で書かれた差出人不明の手紙が届く。英語指導の牧師に相談すると野口のラブレターと判明した。しかし、ヨネの心には響かなかった。

 それぞれ上京し医療人を志した若い2人は、医学書の読解などを通じて交流を持つ。恋心を募らせた野口は改めて告白したのだが、見事に失恋。ヨネは郷里で医師の夢を実現した。会津で開業した女性医師は初めてだったという。

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 黄熱病 ウイルス感染した蚊によって広まる急性出血性疾患。発熱や頭痛、筋肉痛、吐き気などの症状があり、患者によっては黄疸(おうだん)が出ることが病名の由来とされる。患者が重症化する割合は高くはないが、重症化すると約半数が1週間から10日以内に死亡する。世界保健機関(WHO)によると、アフリカや中南米の熱帯地域で流行している一方、非常に有効なワクチンがあるため予防でき、多くの国々や機関により抑え込むためのキャンペーン活動が展開されている。

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 渡部鼎 1858~1932年。漢学者で医師の渡部思斎の子として現在の西会津町野沢で生まれ、医師を志した。後に会津若松で会陽医院を開業。衆院議員も務めた。「黎明(れいめい)期の群像」第7回に掲載。

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 小林栄 1860~1940年。会津藩士の子として現在の猪苗代町に生まれ、福島師範学校(現福島大)を卒業して猪苗代高等小学校の教員になり、教頭に当たる首席訓導、千代田尋常小学校(現千里小)では校長を歴任した。才能を見いだした野口との交流は長く続き、「清作」の名前を変えたがった野口に「英世」=世にすぐる―という名前を授けている。

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 フレクスナー 米国の病理学者、細菌学者。ケンタッキー大薬学部卒。ジョンズ・ホプキンス大、ペンシルベニア大で教授を務めた後、ロックフェラー医学研究所で初代所長に就き、野口とは蛇毒の研究を共に進めた。

【「黎明期の群像」は今回で終わります】