【座談会・上】感染症「必ず克服できる」 福島医大医学部同窓会

 
座談会で本県医療界の先人たちの功績を確かめ合った(右から)重富、竹之下、大戸の各氏。左は中川社長

 福島医大医学部同窓会と福島民友新聞社が連携した企画「黎明(れいめい)期の群像 ふくしま近代医学150年」の連載が終了したのを受け、両者は座談会を開催した。出席者は、天然痘など感染症との厳しい闘いを克服してきた本県医療人たちの功績をたどり、その歩みが本県を医学史の宝庫にしていることを確認。竹之下誠一福島医大理事長・学長は、医学史に関連する講座組織を福島医大に開設し、後世に伝えたいと強い意欲を示すとともに、現代で猛威を振るう新型コロナウイルス感染症について「知恵と技術を集結して協力することで、必ず克服できる」と決意を語った。

 福島市で開いた座談会には、竹之下氏、重富秀一福島医大医学部同窓会長、大戸斉福島医大総括副学長が出席し、中川俊哉福島民友新聞社長・編集主幹が司会を務めた。

 竹之下氏は、オランダ東インド会社の商館医シーボルトが長崎市内に開設した「鳴滝塾(なるたきじゅく)」で本県ゆかりの医師たちも学び、県内で後進を育てたことで「東北において本県は近代医学の先進地となった」と紹介した。

 大戸氏は、天然痘が流行した時代に相馬中村藩や二本松藩、会津藩がワクチン効果を持つ牛痘(ぎゅうとう)を導入して死者数を減らしたことに触れ、「西洋医学がどれほど優れているかを、県民は早くから気付いていた」と述べた。

 日清戦争の際、コレラの国内流入を水際で防いだ須賀川市ゆかりの医師・政治家、後藤新平についても話題となった。福島医大の系譜に連なる須賀川医学校で医学を修めた後藤は瀬戸内海の似島(にのしま)に大検疫所を設置し、コレラが当時流行していた中国などからの帰還兵23万人の防疫や船舶の消毒に当たった。大戸氏は「コロナでも採用されている感染者隔離を日本で最初に実施した」と解説。また防疫には梁川(現伊達市)生まれで後に陸軍軍医総監となる石黒忠悳(ただのり)、泉藩(現いわき市)生まれの医師高木友枝(ともえ)も関わったことを紹介し「本県の3人が感染症を防いだ。素晴らしいトリオ」と語った。

 福島医大の歴史については重富氏が「意識の高い、気概に燃えた女性たちが集まり、素晴らしい学校として再出発した」と述べ、先人の熱意を継承していくことが重要だと指摘した。竹之下氏は「常に新しい選択肢を求めて挑戦するしなやかさがあったからこそ、愚直に追求できた」と、研究に対する福島医大の伝統を振り返り、医学史研究の意義を若い人たちに伝える必要性を説いた。

 戊辰戦争が分岐点に

 福島医大医学部同窓会と福島民友新聞社による連載「黎明(れいめい)期の群像」を受けた座談会では、早くから西洋医学を取り入れた本県ゆかりの医療人の功績を振り返った。

 中川 医学部同窓会と医大、執筆陣の熱意と協力で「黎明期の群像」を福島民友紙上に9カ月、22回にわたって掲載できた。日本の近代西洋医学が萌芽(ほうが)した背景と、それが本県に早くから取り入れられた要因からうかがいたい。

 竹之下 国内で近代医学が本格的に広まるのはシーボルトが1823(文政6)年に長崎・出島のオランダ商館医に着任し、「鳴滝塾(なるたきじゅく)」を開設して以降だ。本県ゆかりの医師も多く学び、帰藩後に指導に当たったこともあり、本県で早く取り入れられ近代医学の先進地となった。本県の近代医療は戊辰戦争の激戦地だったことから始まった。教授として来日したポンペから長崎海軍練習所で近代医学を教わった松本良順(りょうじゅん)と関寛斎は、軍医として戊辰戦争の会津陣営、新政府陣営に分かれて負傷者の治療に当たった。彼ら軍医の活躍が本県に近代医療の黎明をもたらした。

 天然痘との闘い

 中川 こんなに早くから西洋医学を取り入れて人々の命を守ろうとした医療人が本県にいたことに驚く。

 竹之下 本県でも天然痘という感染症に悩まされ、流行を繰り返して多くの犠牲者を出した。会津で初めて天然痘の治療に当たったのが吉村二洲(にしゅう)で、種痘の大恩人と言われている。二洲は長崎で西洋医学を学んでいる最中の1848(嘉永元)年、来日したオットー・モーニッケから西洋医学と牛痘(ぎゅうとう)種痘について指導を受けた。(会津藩に)日新館医学寮蘭学科が創設されると、二洲は西洋医学と蘭学の教授として指導に当たり、会津藩で西洋医学に関する教育を最初に取り入れた。会津一円で天然痘が流行すると先頭に立って治療に当たった。

 大戸 天然痘に対しては世界中で闘った。県内では相馬中村藩、二本松藩、会津藩が早くから闘いを始めた。天然痘にワクチン効果を持っている牛痘を打つと症状を軽くすることができる。オランダで確立されていたものを、日本ではいち早く長崎で導入され、それを会津藩や相馬中村藩が導入して領民に打った。すると他の藩では天然痘で亡くなる人が多かったが、自分たちの藩は防御できた。この実績によって、県民は西洋医学がどれほど優れているかについて早くから気付いた。

 重富 江戸時代の医療は東洋医学が主流だったが、西洋医学も潜在的に存在し、それが民衆に何らかの形で提供されていたと思われる。本県は全国と比べて後進地域というイメージを持たれてきた。しかし、同窓会と福島医大が協力して歴史を調べていくと、会津藩はもちろん、二本松藩、三春藩、相馬中村藩には、江戸時代末期にはすでに西洋医学が芽吹いていたことが分かった。これは非常に大きなことだ。

 両者の利点導入

 中川 それまでの東洋医学側からの揺り戻しは。

 大戸 東洋医学は、経験に基づいて熱や痛みを和らげる方法で体全体を整える。一方、西洋医学は、エビデンス(根拠)に基づいて治療する。東洋医学の良い点と西洋医学の優れた考え方も導入する。こうした柔らかい発想と藩校や寺子屋教育で広く基本的な素養を持っていたので、日本が欧州に追い付くことについて、医学の分野でもそれほど引けを取らなかったのではないか。

 中川 福島はうまく受け入れた。

 大戸 歴史をさかのぼると、江戸時代には天明の大(だい)飢饉(ききん)で相馬・双葉地域の人口の半分ぐらいが餓死した。その後、相馬・双葉を助けたのは北陸地方だ。日本海側の人たちがたくさん相馬・双葉にやってきて再度、隆盛に持っていった。また、郡山も安積疏水ができて、猪苗代湖の水が引かれるようになって人口が増えた。郡山は九州の人たちがつくったまちと言われた。原発事故で本県から離れた人もいるが、県民と一緒に福島を復興させるという思いを持って来た人があちこちにいる。いわば、福島県は「よそ者」がつくってきた県かもしれない。福島県民はおとなしいと言われるが、よそ者とうまくやって、よそ者の能力を引き立て、私たち自身も向上してきた。これは震災と原発事故を体験した県民にとって重要なキーワードになるのではないか。

 竹之下 「黎明期の群像」を読むと本県が医学史の宝庫だとよく分かる。ここ2年、新型コロナウイルス感染症との闘いの中にあるが、ウイルスや細菌などは広く生物界に存在しており、これまでも人類は感染症と闘いながら歴史を刻んできた。本県は非常に早くから蘭学を学んだ先進県で、日本でもトップクラスだ。その成果があったのは、感染症を抑えたいという思いがあったから。天然痘は人類史上、初めて撲滅に成功した感染症だ。新型コロナウイルス感染症も知恵と技術を集結し、協力し合うことで必ず困難は克服できるのではないか。

【座談会出席者】
・竹之下誠一氏(福島医大理事長・学長)
・重富秀一氏(福島医大医学部同窓会長)
・大戸斉氏(福島医大総括副学長)
▽司会=中川俊哉福島民友新聞社長・編集主幹