【座談会・中】女性たちが活躍 新しい時代切り開く

 
東京・浅草寺の境内にある瓜生岩の座像

 連載「黎明(れいめい)期の群像 ふくしま近代医学150年」を受けた座談会では、戊辰戦争の混乱期から強烈な光を放った女性たちや、世界に開かれた明治時代を舞台に活躍した本県ゆかりの医療人らに話が及んだ。

 中川 医療、看護、福祉における本県の女性たちの活躍を忘れてはならない。

 竹之下 瓜生岩、山本(新島)八重、大山捨松(すてまつ)の3人を挙げたい。瓜生は喜多方市で戊辰戦争の負傷者の養護に当たり、育児院や済生病院を設立するなど貧しい人々を助けた。山本は会津戦争で自ら銃で応戦したり傷病兵の手当てをしたりと、幕末のジャンヌ・ダルクと呼ばれて活躍した。戦後は京都に移り、同志社病院と日本で2番目の看護師養成機関「京都看病婦学校」を創設した新島襄(じょう)の妻として女子教育に力を尽くした。会津出身の大山捨松は、会津藩家老山川尚江重固の娘であったが、日本初の女子留学生としてアメリカに渡りバッサー大学を卒業。帰国後、薩摩出身で西郷隆盛の身内である陸軍卿の大山巌と結婚、お互いに協力し、日本初の看護師養成機関「有志共立東京病院看護婦教育所」の設立などに貢献した。彼女たちは苦難に立ち向かい、覚悟を持って新しい時代を切り開いてきた。行動力は男性以上だ。

 大戸 原発事故や津波の被災地の方々を見ていると、本当に尊敬できる女性がたくさんいる。男の駄目なところを補うというより、駄目なところも理解しつつ、男と比較することなく、自分たちの力を発揮していく。女性の力なしでは、浜通りの復興はうまくいかない。

 重富 (福島医大の前身の)福島女子医学専門学校1回生の同窓会報には、「私たちは歴史をつくるという自覚を持って、ひたすら歩んでいく必要がある」という言葉が書かれている。女性活躍に向けて私たちも配慮する必要があるし、女性たちの向上心や医学・医療に対する気概をどうやって育成するかも大事だと思う。

 感染症流行防ぐ

 中川 明治期に世界とのつながりが深まると感染症も勢いよく入ってくる。この中で活躍が注目されたのが後藤新平だった。コロナで再び脚光を浴びた後藤は須賀川ゆかりの人だ。

 大戸 後藤は現在の岩手県奥州市水沢区出身。当時、胆沢(いさわ)県副知事だった安場(やすば)保和(やすかず)に才能を見いだされ、安場が福島県令となると須賀川医学所に後藤を留学させた。後藤は非常に頭が良く、機転が利く人で、わずか25歳で愛知県医学校(現名古屋大医学部)の病院長と医学校長を務めた。義理に厚く、とことん人を愛すキャラクター。安場には、安場の娘と結婚するまでに気に入られた。須賀川で内科を修め、大阪臨時病院で外科手技を徹底的に学んだ。さらにドイツに留学して公衆衛生学、細菌学、感染症を学んだ。だから全ての分野で能力を発揮できた。
 一番力を発揮したのは日清戦争が終わり、日本に兵23万人が帰ってきた時だ。日本兵死者1万数千人のうち大部分はコレラ感染が原因だった。広島県と大阪府、下関に検疫所をつくった。広島県・似島(にのしま)に帰還兵の大部分を一時隔離し、日本各地でのコレラ感染を未然に防いだ。コロナ感染対策でも取られている隔離を日本で最初に実施した。大阪臨時病院の院長は梁川生まれの石黒忠悳(ただのり)で、後藤は石黒の下で働いていた。実は後藤の下に高木友枝(ともえ)がブレーンとして働いていた。高木は泉藩出身。福島県の3人が感染症を似島で防いだのだ。後藤はその後、関東大震災の際、帝都復興院総裁として首都の復興にも尽力し、台湾総督府民政長官も務めた。

 中川 高木友枝は植民地経営で住民医療・衛生管理を進めた点でも活躍が注目された。どんな人か。

 大戸 1858年、泉藩に兄弟の多い次男として生まれた。東大医学部に進学し、学生時代から後藤と親交があった。後藤がつくった台湾総督府医学校(現台湾大医学部)の2代目の学校長として赴任し、27年間、台湾で暮らした。台湾の人たちは高木を「台湾医学衛生の父」と呼ぶ。ペストを撲滅し、アヘン中毒から解放した。台湾の電力開発に加え鉄道、治水、農業にも取り組んだ。高潔な人で人間的に魅力があった。

 中川 連載で明治以降に登場する人物は、地元の逸材が国内外で活躍するケースが多かった。この時期の医療人材育成は。

 重富 明治初期は「医学を勉強するなら福島に行くしかないだろう」と言われて福島県に来た人がいるほど、本県は医学の先進地だった。当時、西洋医学に基づく医療人材育成は後藤新平が学んだ須賀川医学所で系統的に行われていた。白河仮病院は須賀川医学所を経て、須賀川医学校になる。須賀川医学校は全県の医療を担う形で県内各地に病院を建て、医師や薬剤師を派遣して県内の医療を担うとともに、医学教育に携わった。その後、須賀川医学校は福島医学校という形で福島市に移転したが、残念ながら明治政府の方針により廃校となった。福島医学校の付属だった病院は、県立福島病院となり、有志によって支えられて運営が継続され、医学教育が引き継がれてきた。昭和初期、太平洋戦争末期に福島女子医学専門学校(女子医専)が設立されたとき、それまで続いていた病院は女子医専の付属病院となった。これらの経緯からみて、本県の西洋医学教育は、明治初期から現在まで途絶えることなく行われていたと言うことができる。

座談会出席者

【座談会出席者】
・竹之下誠一氏(福島医大理事長・学長)
・重富秀一氏(福島医大医学部同窓会長)
・大戸斉氏(福島医大総括副学長)
▽司会=中川俊哉福島民友新聞社長・編集主幹