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偉人を産んだ豊かな土壌
神良種が小平潟(こびらがた)天満宮を勧請(かんじょう)してから、約500年後に猪苗代兼載が、この小平潟で生まれた。
兼載は、室町時代に隆盛期を迎えた連歌(れんが)の第一人者として、北野会所奉行職と連歌界の最高位である宗匠(そうしょう)の位にのぼりつめた、飯尾宗祇(いいおそうぎ)と並び称される当代きっての文化人である。
今日、連歌という詩歌を知らない人は多いであろう。兼好法師の『徒然草』にも、夜更けまで連歌に興じた僧が、飼っていた犬を当時「猫また」と呼ばれて恐れられていた化け物と間違えて、慌てて川へ落ちてしまう失敗談が第89段に書かれている。
当時、多くの戦国大名たちは戦勝を祈願して連歌を寺社に奉納し、貴族も武家も法師も町人も、山賊までもがこぞって連歌を案じている。
或る者は、連歌に溺(おぼ)れて身代を滅ぼし、連歌未亡人となる妻たちも珍しくなかったと言う。それほど鎌倉から室町時代にかけて連歌は、都・地方を問わず民衆を熱狂させたのである。
連歌とは、上の句(五七五)と下の句(七七)に分けたものを別人がそれぞれ詠んで唱和すること(短連歌)から始まった。その始源を日本武尊(やまとたけるのみこと)の「新治筑波(にいばりつくば)を過ぎていく夜か寝つる」の問いに、火ともしの老人が「夜には九夜(ここのよ)日には十日を」と答えて一首の歌となったことから、「筑波の道」ともいう。「つらねうた」「つづけうた」の異名もある。
平安時代にはじまったこの形式は12世紀頃(ごろ)からは多人数、または単独で、上の句と下の句を交互に、どこまでもつらねていく長連歌に発達し、中世になると全盛期を迎えるのである。
三十六句(歌仙)、五十句(五十韻(いん))、百句(百韻)などの形式があり、最初の句を発句(ほつく)といい、主催者や宗匠がよみ、2番句を脇句(わきく)、3番句を第三、最後の句を挙句(あげく)、その外の句を平句(ひらく)といった。
はじめは社交的な余興であったが、次第に芸術性豊かなものに高められて、15世紀に宗祇によって大成される。この宗祇のライバルとされ、連歌の最盛期に宗祇とともに『新撰菟玖波(しんせんつくば)集』を編集し、宗匠の位に就いたのが、兼載である。
兼載を生んだ会津は、文学的土壌の豊かな地方であった。
『新編会津風土記』には「東明寺の人麻呂画像、この一軸自画云上に式紙形二枚を描き人麻呂の歌二首を書す。この歌定家の筆跡と云伝ふ」とある。柿本人麻呂は和歌や連歌を詠む人たちの信仰の対象であった。
この東明寺は、『大日本地名辞典』によると、「建治3(1277)年に一遍上人(いっぺんしょうにん)が会津に来たりて郭内本二ノ丁に当麻山東明寺を建てる」とあり、時宗の開祖、一遍上人の諸遊行の旅に大変縁の深い寺とされる。
一遍上人が開いたとされる時宗は、京都四条道場や七条道場が歌合わせや遊学サロンとなり、諸芸に秀でた人を多く輩出しており、時宗の心得として連歌のたしなみがあったことは広く知られているようである。
また『新編会津風土記』には真言宗金剛寺について、
『菅天神画像』一幅、伏見院宸筆『和漢朗詠集』一巻、鳥飼筆『御成敗式目』一巻、心敬筆『歌書』一巻、為相筆『源氏物語』一巻などを蔵していた
という。
さらに、宗祇を門下として「宗」の名を与えた宗砌(そうぜい)は、梵燈(ぼんとう)を師匠と仰いだのだが、その梵燈は将軍足利義満の幕臣として活躍した後、出家して諸国を行脚し、会津に来遊していた。
上野白浜子・林毅氏共著の『梵燈庵の救済追善百韻』を繙(ひもと)くと、『梵燈庵主返答書』の中に、梵燈が陸奥を旅する頃、清澄な湖辺に一夏を過ごした紀行のあることが紹介されている。
上野・林両氏はこの湖での一節を、清澄を以て知られる猪苗代湖の風景をたたえたもの、としている。
晩年帰京して連歌界の中心となった梵燈に、文学的な感動を喚起させたのは、猪苗代湖の見事な風光とされているのだ。
このように文学的土壌に恵まれ、連歌の大家が来遊していたと考えられる会津において、連歌が盛んであったのは当然であろう。そしてその中から兼載が出現したことも、あながち偶然とは言えない。
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戸田 純子
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一遍上人ゆかりの東明寺(会津若松市)は価値ある文化財を有している |
【2009年7月1日付】
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