|
3歳で季感わきまえる
猪苗代兼載は、享徳元(1452)年、小平潟(こびらかた)村に生まれた。兼載の出生に関しては、小平潟並びに猪苗代地方に伝わる話が、柏木香久氏著の『兼載のいろ香』に次のように記されている。
小平潟の村主に石部(いしべ)丹後(たんご)という者がいた。丹後には娘がいたが(1説には丹後の娘ではなく、下女であったと伝えるが、どちらが本当であるかははっきりしない)、縁遠かったので天神様に百日間通って祈願した。或る夜、あやしい人が一枝の梅花を娘に投げ与え、左のたもとに青梅の実が入ったら男の子、右のたもとに入ったら女の子が生まれると告げた。そして左のたもとに実が入ったという夢を見た。不思議なことにその後身重になり、13カ月目に男の子が生まれた。母は天神が授けた子であるとして、幼名を「梅」と名付けた。また兼載が3歳の頃(ころ)、母の背中に背負われて畑に行った。村人が「梅よ、どこさ行く」と尋ねたら、「冬青々として夏かれる草を刈りに行く」と答えたと言う。
ここには、兼載(梅)は3歳で季感をわきまえたほどの天才ぶりが伝えられているし、天神の霊験として生まれたかのような兼載の出生は、江戸時代の儒学者山崎闇斎(やまざきあんさい)による『会津山水記』にも、「兼載の母はこの小平潟天満宮を祈願して兼載を生む」と記されている。
兼載の母は加和里(かわり)という。父については、兼載自らが語ったものではないかとされる資料がある。
金子金治郎氏著『連歌師兼載伝考』によると、永正元(1504)年3月に、兼載は五山の詩僧・景徐周麟(けいじょしゅうりん)を訪問して斎号を依頼し、それに応じて景徐周麟が、『耕閑軒記(こうかんけんき)』を執筆した。
その中に、「我が国の連歌の宗匠である兼載と言うお方は、関東人で、桓武平氏(かんむへいし)の流れをくむ三浦介を祖先とし、其の父は猪苗代式部少輔盛実(しきぶしょうもりざね)24代である」と記され、葦名四臣の名家である《富田家年譜》にも同様に、父が猪苗代式部少輔盛実とする記載がある。
猪苗代氏については、『日本古典文学大辞典』(岩波書店)に奥田勲氏が、「関東平氏三浦介義明を祖とする佐原氏の分流で、鎌倉時代初期以来の会津の名族の一つである。義明の子、義連(よしつら)が佐原氏を名乗り、その子盛連(もりつら)の長子経連(つねつら)が猪苗代氏と称したのが猪苗代氏の始まりと言う。経連の弟光盛(みつもり)は葦名(あしな)氏の祖とされ、従って猪苗代氏は葦名氏と同族ということになる」と述べている。
現在小平潟天満宮の参道へ入る鳥居の側に兼載の石碑が建てられているが、「葦名兼栽」と刻まれているのは、そのためであろう。
さて、『兼載のいろ香』にも記されていたように、熱心に天神に祈願して兼載を生んだとされる母・加和里は、小平潟の地頭石部丹後の娘ではなく、下女だったとも言われている。
兼載はわずか6歳で会津黒川(現会津若松市)の真言宗自在院の仏賢大和尚に引き取られ、剃髪(ていはつ)して僧となるのである。
どのような事情が小平潟に彼を置かなかったのかは定かでないが、兼載は村を去るにあたって、小平潟天神社の神域に松樹を植え、その将来を祈願したと言われている。
身を切る思いでわが子を手放した母・加和里の悲嘆は察するに余りある。やはり彼女の素性が問題だったのではないか。悲しみにくれる加和里が母として遠くに行ってしまった息子にできることと言えば、ひたすら天神に祈り続けることだったのではないだろうか。
|
戸田 純子
>>> 6
|
猪苗代兼載肖像画(会津若松市の自在院所蔵) |
【2009年7月8日付】
|