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抜きんでた才能への嫉み
兼載の生い立ちについて、彼自らが詠んだ連歌(れんが)を『京都大学蔵・貴重連歌資料集3』(麟川書店)と『続群書類従巻第四百八十七・連歌部十七』から紹介しよう。
ひとり子さへはぐくみぞえぬ/つみをもき人は仏も道びかで/寺かとみえてともす火のかげ/その2月ののちの御ほとけ/とく人のこと葉に法の花ふりて/たらちねのいとけなきよりはなれきて/法の師にとふ人のかしこさ
(園塵第一・雑「京大本」)
年ふれば小松も花に風吹て/いかなる種かうらみとはなる
(園塵第三・春「類従」)
たった一人の我(わ)が子を育てられない母は、罪を重く感じ、仏様さえお導きにならない。どういう素性かわからないが、その素性ゆえに、幼い自分を手放さなければならなかった母。だから母よりもむしろ、素性そのものを恨まずにはいられなかったと、そんな風に読むことはできないだろうか。
6歳で自在院へ引き取られた兼載は、仏賢大和尚を師として仏の道を問い学びながら賢明に自らを修めていく。しかし、彼の胸の内には常に母への思慕がつきまとっていたはずだ。その想(おも)いが強かったからこそ、引き裂かれた母子の運命を呪(のろ)ったりもしたのだろう。それ故、これらの歌からは、不義の子を匂(にお)わせるような悲痛な叫びが聞こえてきそうだ。
幼い兼載が拾われた自在院は、当時諏訪神社の側にあった。諏訪社には連歌会所が附設されており、そこで月次連歌会が催された。前述の『猪苗代兼載年譜』には、兼載も12歳の頃(ころ)にはその会に出座して頭角をあらわし、13歳でその才能は他を寄せつけず、一句を聞いて百句を案じたと伝えられている。
しかし抜きんでた才能は、時に周囲の嫉(そね)みを買うものである。『猪苗代兼載年譜』を続けると、兼載15歳時に、その才能を嫉妬(しっと)するものが連歌の席に臨むことを拒み、誤ってその一指を門扉に挟んで折ってしまったという。
また、『福島県耶麻郡誌』には、同じく15歳の時、諏訪神社での連歌会で、兼載が度々その席に列し、秀句を詠むので、会衆がその怜悧(れいり)(利発)をねたんで、彼が来るのを拒み、一間の戸を閉じて兼載を閉じ込めた。後にその戸が、「兼載措戸」として永く自在院に伝えられたという話が記されている。
さらに『会津旧事雑考』にも、「幼くして穎異(えいい)(ずばぬけて優れている)なり。薙髪(ちはつ)(頭髪をそって仏門にはいること)して自在院の僧と為り、性、和詠を嗜(たしな)み、福を住吉社(和歌の神)に祈る。屡(しばしば)連歌の席に臨みて、句の秀るるを多く以て妬(ねた)まれ、憤りて、洛(らく)(都)に入る」と、これまで述べたあらましと、この時の憤慨が彼を都へ向かわせたことに言及している。
閉じ込められたならまだしも、もし指を折っていたとしたら、医療の貧弱な当時において快復(かいふく)できたかもあやしいもので、肉体的にも精神的にも兼載は、相当傷ついたはずである。
この怒りから発奮して、兼載は後に連歌師としての大成をみるのである。
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戸田 純子
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兼載が6歳で引き取られたとされる自在院(会津若松市) |
【2009年7月15日付】
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