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  【 会津の天才連歌師TOP 】
 先達との出会い 
 
 心敬との固い師弟関係


 連歌論の最高峰と言われる『ささめごと』の作者心敬(しんけい)は、都の乱を避けて応仁元(1467)年から、亡くなる文明7(1475)年まで関東に流寓(他郷にさまよい住む)する。前述の『猪苗代兼載年譜』では、兼載17歳時に「心敬僧都の品川の草庵を訪ねてこれに師事した」とあり、翌年の18歳時には、太田道真主催の「河越千句」に心敬と共ともにその門下として「興俊」の名で列座し、宗祇にも接する機会を得る。

 その後心敬を日光から会津へと案内する。

 露あをし さらに 
 手染の あひづ山

 足もとの青々とした草に置かれた露、見上げると、群青に染まり、壮大に連なる会津の山々に、心敬が感動して詠んだ句である。

 この会津滞在中に心敬は自らの連歌に註を施し、それに連歌論を添えた『芝草句内岩橋』上下二冊を興俊(こうしゅん)(兼載)のために書いた。書名にもなった「岩橋」は、恐らく磐梯山の「磐(いわ)梯(はし)」のことかと推察されるが、「河越千句」から心敬の会津来遊という文明2(1470)年には、心敬と興俊との間に師弟関係が固く結ばれていたことが分かる。

 宗祇(そうぎ)も応仁2(1468)年に『白河紀行』の旅をしており、興俊の生地会津に近いという点で、この頃(ころ)に近づき得た可能性もある。

 文明7年に宗祇は、興俊(兼載)のために『源氏物語』を講釈しており、師弟関係が成立していたらしい。興俊がその後、宗祇の「宗」を得て「宗春(そうしゅん)」と名乗っているのも、こうした師弟関係を表わしたものと思われる。

 翌文明8年、25歳という若さで宗春(兼載)は、幕府の権力者畠山政長の北野社千句法楽という晴れの席で発句を詠むのであるが、これは宗春が当時の京都連歌壇において、相当認められていたことを示している。この天才的な出現ぶりの背後には、宗祇の導きと援助があっただろうと、金子金治郎氏の「連歌師兼載伝考」には記されている。

 その後も宗祇は、主上(天皇)の側近にあった三条西実隆に宗春(兼載)のことを吹聴(ふいちょう)しており、実隆を通じて、宗春(兼載)の名声が主上(天皇)の御耳に入ったことも十分想像できる。

 このように中世連歌を代表する2人の先達に関東で出会い、両者に導かれたという幸運は、後の兼載を決定付ける最も重要なものであった。

 応仁の乱前後の戦乱の都を避けて、比較的政情が安定していた関東に、この2人の先達がやって来た時代背景が大きな要因と思われるが、孤高の人と評される心敬が敢えて伝授し、宗祇が中央での活躍の場を広げてくれたことなどを考慮すると、偉大なこの2人は、それに値する兼載の才能を見抜いていたのではないだろうか。

 相次ぐ戦乱が、文化において都鄙(とひ)(都と田舎)入り乱れる現象を生み出したのは、歴史の皮肉かもしれない。「一座同心(いちざどうしん)」という、連歌における天皇・公家と武家・連歌師との同座は、前代の和歌を中心とした貴族の時代では考えられない破天荒なことだったのだが、それが中世では日の目を見るのである。

 大局的に見れば見るほど、兼載は出会うべき人に出会い、時代の趨勢(すうせい)に乗るべくして乗ったのかもしれない。それを神のご加護(かご)ととらえるのは、果たして早計であろうか。(猪苗代町出身、埼玉県立皆野高校教諭、詩人)

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 兼載ゆかりの小平潟(こびらかた)天満宮(猪苗代町)の夏の例大祭が24、25の両日行われる。天暦2年6月25日の勧請(かんじょう)の日にちなんだもの。

 


会津の天才連歌師 猪苗代兼載没後500年記念

戸田 純子

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先達との出会い
心敬が兼載のために書いた「岩橋」は、磐梯山からの書名か?

【2009年7月22日付】
 

 

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